元祖デイープステート告発者、ウィリアム・クーパー氏 1-1

デイープステート・UFO研究家にとって、古典的な存在の本がある。1991年に出版された、ウィリアム・クーパー氏が綴った『Behold a pale horse』である。彼等にとってクーパー氏は常識中の常識、ヒーロー中のヒーロー、まさに草分け的存在だ。そもそも氏が, 政府が長くその存在すら否定し続けていた『エリア51』をいち早く世に知らしめたのだ。驚くことに、2001年9.11(同時多発テロ)に関しても、その半年前から自身の短波ラジオ放送で正確に警告を発信していた。『我々自身の政府が、オサマ・ビン・ラデインという男の名前を使ってテロを起こすことを画策している。』と。結果、彼はその年の11月に命を落とすことになる。ここでは1991年出版以来今なお再販を続けている氏の『Behold a pale horse』の序章を抜粋で紹介してみたいと思う。クーパー氏の生い立ち、軍の経歴、そして何故氏が軍を去り、フリージャーナリストに転向し、命がけの啓発活動を始めるに至ったのか。それを是非多くの方に知っていただきたい、と願っている。Divine Light

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ウィリアム・クーパー氏 著 Behold a pale horse 1991年出版

 

〔序章より抜粋〕

何故、人が私の個人的情報を知りたがるのか理解に苦しむ。私は一度でも『誰かのヒーローになってやる。』などと思ったことは無い。誰かの人生の模範となるような、そんな大それた人間ではない。私は至って平均的な、普通の人間なのである。ただ、一つ確実に言えることは、私はいかなるものをも祭り上げたり、崇拝したりすることは絶対に無い、ということである。私はただ、あなたに伝えたい『メッセージ』を持っているだけだ。そしてその『メッセージ』は多分、殆どの人にとって受け入れ難いものであろう。しかし、もしこのメッセージを受け取ってくれる人がいるとすれば、私はあなたの真の兄弟である。そして我々が力をあわせれば、未来をより良いものに変えていくことが、ひょっとしたらできるかもしれない。。。

ウィリアム・ムーアという人間が私を貶めるために書いた『フォーカス』という本には、私が原理主義を説く伝道者だ、と記されいたが、念のために言っておく。私は伝道者でもなければ何か宗教活動を始めようとしているわけでもない。どんな団体にも所属していないし取り巻きもいない。またある時は、ラジオ番組で、私は極右翼であるとか、共産党員のリストに名を連ねているとか、人種差別者であるとか、アルコール中毒患者であるとか、さんざんに言われてきた。真実をはっきりと述べよう。私の政治的信条は『憲法』。これだけである。私の妻は中国人である。私はベトナム戦争共産党と戦った元軍人だ。もしまた戦わなければならない事態に陥ったとしたら、私はまた戦うだろう。しかしそれは自分の『本土』を衛るために、だけだ。若いころは浴びるようにアルコールを飲んでいた時期もある。しかし今は妻と作る料理に、クッキングワインを入れるくらいで、酒は殆ど口にしない。

こういった誹謗・中傷はこれからもずっと続くだろう。それらが例え『事実』であったとしても、それによって、私が記す内容の真実性を曲げることにはならない。だから大いにその誹謗・中傷を信じればいい。信じた上で私の主張していることを注意深く検閲してみて欲しい。そうすれば、その中に、矛盾が無いことにきっと気が付くはずである。

私の祖先は、英国人やスコットランド人、アイルランド人である。私には南北戦争で、南側についた親族もいれば、北側についた親族もいる。インデイアン戦争で戦ったものもいる。テキサスの馬泥棒なんていうのもいた。さだかではないが、絞首刑になったようだ。子供のころに、チェロキー族の血も混じっているとかすかに聞いた覚えがある。だが、それについて詳しく聞こうとすると、おだまりなさい!とたしなめられたものだ。インデイアンの血が混じっていることがそんなに不名誉なことなのか、私には理解できなかった。私は今だってそれをとても誇らしく思っているのだが。私の父方の會祖父は幌馬車に乗ってテキサス州入りし、オデッサに移住した、初期の入植者である。生粋のカウボーイであり、後に、最初の油田労働者となった。私の會祖父が、革のベルトにピストルを刺した格好で、飲み屋の横に立った姿で収まっている写真が今でも残っている。ある日、會祖父が牧場へ働きに出かけていて留守中の出来事だった。その頃はインデイアンとの抗争が激しさを増していた時期だった。會祖母はまだ新婚ほやほやの若い女性だった。ある日の早朝、起床すると、隣の村で火があがっているのがみえた。まもなく5人の若いインデイアンたちが軒先に姿を現した。死ぬほどの恐ろしさだった。しかし怖がっていることをみせればきっと殺されるに違いないと思った彼女は、彼等に馬から降りるように言い、家の中に招き入れ、食事を与えたのだった。彼等はお腹が一杯になると何の狼藉を働くことなくその場を立ち去った。彼等が去った方角で、その午後、のろしがあがった。あとでわかったことだが、その日、そのあたりで、無傷ですんだのは彼女だけだった、とのことだった。私の會祖母はとても勇敢な女性だったのだ。會祖母は私にその話しをしてくれた後まもなく、交通事故で亡くなった。彼女の人生は幌馬車で始まり、フォード車、そしてボーイング707で幕を閉じたのだった。私の父方の祖父の家族も幌馬車で大陸を横断し、いまだインデイアン領であったオクラホマへ落ち着いた。オクラホマ開拓ラッシュの最前線で320エーカーの土地を確保することに成功した。今、イーニッドと呼ばれている場所である。夫婦は子沢山だった。私は、會祖母がみたこともないくらい大量の朝食を料理していたのを今でも憶えている。私が父からクリスマスプレゼントにもらったライフルで、人生初の狩りをしたのもこの會祖父の農場でだった。朝が明けるのも待てずにこっそり起きだし、小川のほうへ出かけて行った。2時間くらい経った時、木に停まっているうずらを打ち落とすことに成功した。得意になって帰宅すると、農場の小作人がそれを見て『ぼうや、すすめなんか撃ち落してどうするの?』と笑い転げて言うのだった。それは、『うずら』ではなく『すずめ』だったのだ。私は恥ずかしくなって誰にも分らないようにそれを土に埋めてしまった。うずらは、木には停まらないらしい。こんな話しをすると、なんて残酷な!と非難する人もいるだろう。しかしその頃は、少年がライフルをプレゼントされ狩りをするということは、至極当たり前のことだったのだ。狩りのシーズンには、そうやって息子たちが仕留めてくる食料のおかげで、家庭は少し出費を抑え貯蓄に回すことができたのだった。憲法第2条を護り実践するためにも、市民が銃を所有することは良しとされていたのである。市民が銃を所有していれば、政府が市民を圧制することは難しいのだ。私の母方の家族はスコットランドからノースキャロライナへ入植した。働き者で質素な家族だった。貧しかったらしい。母方の話しはあまり聞いたことがないので詳しく知らないのだが、祖母は祖父が亡くなって、子供を何人か手放さなくてはいけなかったらしい。子供たちを全員養育するお金が無かったのだ。私の母はそう言ったわけで、事態が好転するまで児童養護施設に預けられた。祖父は家族内であまり評判が良くない。良い話しを聞いたことがない。いずれにせよ、私は祖父が亡くなってから生まれている。私は1943年5月6日に生まれた。私は軍人の家に生まれたのだ。父はアメリカ空軍の大佐だった。彼は複葉機の操縦士として空軍歴をスタートさせたのだった。私は父が耳おおいのついた帽子をかぶり、革のジャケットを着て複葉機の前に佇んでいる姿の写真を今でも大事にもっている。たまに、父の仲間のパイロットたちが家の台所で、飛行機の話しに花を咲かせていたのを憶えている。時々、彼等は、『フーファイター』や『UFO』と呼ばれる物体について話していた。時々、投射器を出して空軍のスライドをみせてくれたりしたものだ。それは本当に楽しみだった。私自身、8歳になる頃までには、ありとあらゆる空軍が所有している実物の飛行機を観に行ったり、飛行機の中に入って見学する経験をもった。父の多くの仲間が飛行機事故で亡くなった。ポルトガルアゾレス諸島、ラジェス航空基地に滞在していたある夜、基地の映画館で映画を観ていた時だった。惨事が起こった。B29が墜落したのだった。離陸した時か着陸した時かは忘れたが、この時の光景は一生忘れることができない。何だか急に大人になったような気持になった。墜落事故はそれから何度も目撃することになる。父が生きて家に帰ってくる、ということがどんなに幸運なことなのか、身をもって知ったのだった。その頃は、まだ飛行機は安全な乗り物ではなかったのである。空軍のパイロットは大変危険な職業だったのだ。

かといって私はいつもいつも父が大好きだったわけではない。父は相当厳しい人だった。父のベルトはいつも傍にあった。父に、子供を『棒でしつける。』という考えは無かったようだ。私は、とても感受性が強く頑固だった。ルールに従う、という従順なところがなかったのでたびたび父の雷が落ちたものだ。幼い私は父のことを、暴君だと思った時も限りない。今では父のそうした厳しい躾けに心から感謝している。父の厳しい躾けがなかったら、きっと不良になっていたであろうことは疑う余地もないところだ。今、私は父のことが大好きである。彼は私のよき味方である。独立心が強く、社交的で、威勢がよく、たくましく、自信に満ちていて、冒険好きで、ちょっと横柄なところもあり、ハンサムで、大きなクマのような男なのだ。母は言ったものだ。父がジョン・ウェインのようにハンサムだったから恋に落ちたのだと。確かに似ている。私の母は、典型的な南部の女性である。人は彼女のことを南部の品の良いご婦人、と呼んだりする。母のような古き良き女性は消えつつある。男が孤独を感じる時、母のような女性が傍にいてくれることは、きっと誰しもが夢に描くことだ。こんなにも親切で優しい女性を私は他に知らない。自分の母だから言っているのではない。これは本当のことなのだ。若い時も美しかったが、年老いた今も美しい女性だ。そして度が過ぎるほど誠実だ。良いときも悪いときも、決してひるむことのない女性だ。いつの時も、たくましく、と同時に親切で優しく、愛情豊かなのだ。料理も天下一品だ。私は多分、世界中の誰よりもこの母のことが大好きなのだ。私にはローニーという弟とコーニーという妹がいる。二人は私より2歳下の二卵性双生児である。父の海外勤務が多かったため、私たちは海外生活が長かった。それで兄弟仲は普通よりとても密接だったと思う。他の子供たちと遊ぼうにも海外では言葉が通じない子たちばかりだったからである。学校の友達は出来たが、学校も遠いところにあった。殆どおもちゃも買ってもらえなかった。クリスマスは楽しみだった。ひさしぶりにおもちゃを買ってもらえたからだ。弟のロニーは今、妻のスージーと娘のジェニファーの3人でオクラホマ州のガーバーに住んでいる。農機具の販売業で生計を立てていて、彼等二人で立てた家に住んでいる。その家は彼等の終の棲家になりそうだ。ロニーは、元々は軍の将校だった。ベトナム戦争では銀星章を授与された。私が脚を失う事故に見舞われた時は、お見舞いに来てくれた。その1976年以来、彼に会っていない。仕事関連の出張でない限り、お互い飛行機で訪ねあうのは痛い出費なのだ。でもそのうち急に訪ねて行ってびっくりさせてやろうと思っている。彼は、そういえば會祖父によく顔が似ている。妹のコーニーはこれまた素晴らしい女性に成長した。幼いころ、コーニーは私の後ろばかりついてまわった。どんなに追い払おうとしてもしつこくおっかけてきたものだ。かわいくて仕方のない妹だったが、私はそんな事はおくびにも表情に出さなかったものだ。コーニーが大人になるにつれ不思議な現象が起こった。時々怒りっぽくヒステリーになったのだ。ロニーと私が首をかしげていると、母が優しく『ホルモンのせいなのよ。』と教えてくれた。コニーは美しい女性に成長し、高校の時のボーイフレンドとめでたく結婚した。そして子供が二人いる。

 

ウィリアム・クーパー氏


 (1-2へ続く)

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