マルキシズム、サタニズム、そしてイルミナテイ、ニュー・ワールド・オーダー ⑤ エッジ・オブ・ワンダーより

-----レーニンスターリンによるソビエト革命は充分に悲惨なものであったが、それは毛沢東文化大革命を通して中国にもたらされた恐怖のほんの序章に過ぎなかった。中国において、政権がこれほどまでに自国民を殺害したりしたことは、未だかつて無かったことである-----

 

毛沢東 1893-1976

毛沢東、現る

1911年中国では、『辛亥革命』が起こり中国最後の王朝『清朝』が倒され『中華民国』が樹立された。『辛亥革命』が起こった時、若干17 歳であった毛沢東は、革命軍『中国国民党』に参加していた。この『中国国民党』が革命後最初の『中華民国』を形成することになる。しかし毛沢東は、1917年ロシア革命が起こるとレーニンマルクスイデオロギーへと転向していき、自身の『 中国共産党』を形成。党に参加するよう、国民党員を獲得し始めた。毛沢東は、中国の人口があまりにも多く、資源・土地・食料を使いすぎていると考えていた。そして、彼の主張に合わない人を排除させる、という優生学そっくりの思想をもっていたのである。

4つの『古』いもの

毛沢東は、4 つの『古』いものを破壊していく、という計画を実行に移していった。4つの『古』いものとは、『古い慣習』『 古い文化』『 古い体質 』『古い考え』を指していた。伝統文化をことごとく破壊し、中国人が自分たちのルーツを忘れてしまうように仕向けたのである。そうすれば『中国共産党が存在しなければ新しい中国は存在しない』といった類の共産主義の新しいイデオロギープロパガンダが人民にとって受け入れやすくなる、と考えたのである。しかしその話しの前に、毛沢東は一体いかにして人類史上最も破壊的な共産主義政権を築くことができたのか、振り返る必要があるのだ。

国民党 VS 共産党

レーニンスターリンは、米国が彼らにとって脅威になることに気づいていた。これに対抗するためには、彼らは中国を味方につける必要がある、と考えたのだ。そこで『ボリシェヴィキ』は代表を中国に派遣し、中国で共産主義組織の設立を開始した。すぐに、国民党との同盟が形成された。毛沢東率いる中国共産党は、その頃から30年もの間ソビエト連邦共産党の機関となり、毛はソ連から毎月170元(当時の平均的給料は20元)の給付を受け続けた。そのおかげで、中国共産党は非常に急速な成長を遂げることができたのだが、それでもまだ国民党を転覆させるには至っていなかった。そこで毛沢東は、両方を支援しながら密かに国民党を内部から崩壊させようと画策していった。間もなく双方の間で市民戦争が勃発し、毛沢東は国民党の手によって大敗を喫する。しかし日中戦争(1937年―1945年)が起こると、毛はこの状況を最大限に利用したのだった。彼は、自分の軍隊を日本軍と戦わせても勝てる見込みはないし、かと言って国民党と力を合わせて日本軍に対抗しても勝利を手にするのは国民党であり、そうなれば中国共産党が中国を乗っ取ることはできないであろうと考えていた。では彼はどうしたかといえば、 最初は日本軍と一緒になって自分の軍隊を国民党と戦わせたのだった。そして、国民党が支配している地域では、労働者はストライキを、学生は授業のボイコットを、兵士は反乱を起こすよう呼びかけ日本軍に反逆するよう歓呼したのだった。しかしこれは実際には、国民党支持者らを死に追いやる作戦で、彼等らが決して共産党に対して蜂起しないようにするためであった。戦争が進行する中、毛は自分の拠点を徐々に拡大させていった。やがて国民党が敗北の危機に瀕すると、毛沢東は今度は軍隊を日本軍と戦わせたのだった。やがて日本軍は降伏し、国民党軍は共産党軍へと組み込まれていったのである。もはや中国の一般市民にとって毛は『英雄』であった。 彼は単独で戦争に勝利することに成功し、大規模な軍隊を編成し、『これからは中国共産党が新生中国を率いていくのだ』ということを人民に示したのである。現在も、中国では教科書に『中国国民党は日本軍から逃げ出したが、中国共産党は中国を救ったのだ。』と書かれている。

1959年から1961年にかけての大飢饉

毛沢東はすぐに、大量の人間を殺す最善の方法は戦争ではなく飢饉である、ということに気付く。スターリンの飢饉は充分に悲惨であったが、中国共産党の飢饉はそれとは比べものにならないレベルのものであった。わずか 3 年間のうちに 4,000 万人が死亡した、と推定されているが、実際の数字を追跡することは不可能である。中国共産党は、この大飢饉を『3 年間の自然災害』と呼んだ。今現在でも教科書にはそう書かれている。飢饉が最も深刻な地域では、互いの子供たちが食糧としてやり取りされた。毛はこの間、党役員らを試してもいた。 外部に真実を語らず飢饉が起こっていることを否定続けた党員たちは、上位に昇進していったのだった。

互いに敵対させる

中国共産党が行ったことの 1 つは、中国人同士が互いに敵対し、お互いを信用しないように、そして中国共産党に反対する人は誰であっても非難するよう強制したことであった。このいわゆる『善行』に対し、例えば子供たちには教室で高い評価が得られるという報酬が与えられたのだった。(反共産党的であるとして)他の家族のメンバーを引き渡すと、その家族のメンバーは共産党における階級が上がったのである。『文化大革命』の間、父と息子が互いに殴り合ったり、夫婦が争ったり、母と娘が互いに告げ口しあったり、教師と生徒が互いに敵対する(生徒が先生を殴る)、などということは、極めて一般的なことであった。共産党のもっている性質が、人々の内にコンプレックスや憎しみを引き起こしたのである。

独裁体制へ

毛沢東は、今度は『すべて』を支配し乗っ取ることを計画していった。中国は、他のどの国よりも多くの人口を抱えていた。つまり、もし人々が自ら革命を起こせば容易に転覆 されかねなかった。彼は、徹底的に中国人を党に服従させる必要があると考えたのだ。人々は、党のことをネガテイヴに考えることさえ怖がるようになっていった。

ここで、中国・ベトナムにおいて活動したカトリック宣教師、レイモンド J .デ イェーガー神父 が書き記した『The enemy within』という本から、一節を引用してみよう。

共産党員らは、その地域の住民全員、特に地元の学校の教師や子供たちを村の広場に招待した。 するとその広場に、中国共産党の方針に反対する 13 人の愛国心を持つ若者が連れてこられた。処刑執行人が大きな鋭いナイフを持ってステージに上がると、誰かがいわゆる『不正行為』について告知した。次に、共産党を称賛し最高の栄光を与える歌詞のついた党の歌を生徒たちに歌わせるよう教師が強いられた。子供たちが共産党の歌を歌っている間、死刑執行人は『犯罪者』の後ろに立ち、一人一人の頭を切り落としていった。頭が地面に転がると、血が噴水のように噴き出した。子供たちのヒステリックな歌声は、混沌とした叫び声と泣き声に変わった。先生はリズムを保ち歌を続けようとした。混沌とした中で、ベルが何度も鳴り響くのが聞こえた。共産主義者の兵士がやって来て、犠牲者の胸を切り開き、心臓を抉り出した。あらゆる残虐行為が、子供たちの前で行われた。子供たちは恐怖で青ざめ、吐き出す子もいた。教師は兵士たちを叱り、学校に戻るために子供たちを並ばせた。-----子供たちは、だんだんに血そのものに慣れていき殺害に対して無感覚になっていったため、一部の子供たちはそれを楽しむようになっていった。血液が充分に飛び散らないとつまらない、とまで感じるようになっていった。----兵士たちは、 3 人の男の服をはぎ取り、沸騰したお湯に投げ入れた。ある息子は、父親が酸で拷問されているのを目撃しなければならなかった。皮膚が剥がれ頭部だけが無傷のまま、その父親は死亡した。『The enemy within』より

 

 

レイモンドレイモンド J .デ イェーガー神父 の著書『The enemy within』

1956年の百花運動

毛沢東は、中国の知識人たちが共産党のやり方を決して受け入れないであろうことを知っていた。そこで彼は、『中国共産党が正すのを助けるために、知識人たち全員が団結するべきだ』と呼びかけた。この運動は、『百花運動』として知られる。表面上は、中国の偉大な精神を結集させ、思想の自由と中国共産党の是正について彼らの見解を自由に語らせるように呼び掛けた、ということになっている。しかし毛が実際に計画していたことは『蛇を穴からおびき出す』罠だったのだ。毛は、今度は『反右派闘争』を発動し、延べ54万人に対し右翼というレッテルを貼ったのだった。軍のみならず一般の市民までもが残忍な殴打に参加し、ある者は捕らえられたり強制的に家から追い出されたり職を取り上げられたりした。つまり、共産党について否定的な考えを持つ者は必ず党によって見つけ出され裁かれる、という明確なメッセージを人民に送るためであったのだ。

 

------『秦の始皇帝は、460人の儒学者を殺したと自慢したが、我々は46万人の知識人らを殺すことに成功した。』 毛沢東-----------

 

(6へ続く)

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