元祖デイープステート告発者、ウィリアム・クーパー氏 1-5

「behold the pale horse」の画像検索結果

私はいよいよ、自分の出番、つまり、隠された情報、偽情報を公に暴露する時が来た、と覚悟を決めた。手始めとして、敵を欺くために、何も知らない変わり者を装うことにした。私は本物の情報を混ぜた偽情報を作成し、ジム・スピーザ―という人物を介してその文書をムーアとフリードマンに渡したのだった。ジムはその文書はムーアとフリードマンだけに渡す、と約束した。私は、ムーアとフリードマンの二人に、私は大した情報を所持していない、決して要注意人物などではない、取るに足らない人物である、という報告を上の工員たちにレポートさせ、時間稼ぎをし、その間に真実の情報を公に知らしめる活動を開始する作戦だった。私の文書はコンピューターネットワークに送信され、フリードマンはその後、電話を使って私の住所や、勤め先、その他の個人情報を引き出していった。私は彼等に内部情報を使って調査されていたのである。フリードマンとの電話から一週間ほど経過した時だった。二人の国防調査局員が自宅に現れた。そして私が所有するすべてのフロッピーデイスクを押収していったのだった。彼等が押収したデイスクはハードドライヴ無しのただのXTだったので、とりあえず私の作戦は成功したのだった。私は、妻のアニーと数人の信頼する友人たちの助けを得、今度は、知りうる限りの、記憶にある限りの、本当の偽りのない情報を準備していった。そしてその情報を27,000ドルの経費をかけて一斉郵送した。そのパッケージは世界の隅々まで行きわたった。これにより、政府による不当な逮捕や、危害を加えられるといったことを抑止するためである。政府がそんな動きを示せば、それこそが私の主張が正しい、と公に認めることになるからだ。私は同時に、全国隅々のコンピューター掲示板に情報を開示していった。と、同時に、ムーア、シャンドラ、フリードマン等は政府のエイジェントであること、そして、アイゼンハワー報告書とされている文書は偽物である、と公に明言した。私は1989年4月15日、事務局長を務めていたカレッジを退職した。この本の後書きにも記したが、シャンドラがカレッジ構内をうろつき、引っ掻き回したのだ。この収入が途切れたことはかなりの痛手でだった。それでもカレッジの警備部の責任者であったスタン・バーリングトンは何とか生活の足しになるようにと5000ドルを用立ててくれた。彼の誠意、そして私に対するそこまでの信頼には本当に心揺り動かされる思いだった。私は彼に、今後の活動で得る収益の24%を分け与えると約束した。その時誰も、大した儲けになると期待していなかったし、今のところはその予測通りである。それに、スタンには借りの5000ドルは返せたし、これからの収益はすべてエキストラと考えてくれれば、と思っている。彼は私の文書の印刷や、文書やテープ販売の責任者をやってもらっている。スタン・バーリングトンだけが私の正式な代理人だ。それからというもの、妻や私は絶えず尾行され、嫌がらせを受け、留守番電話にはいつも殺人予告めいたメッセージが残されるようになった。

夜中に電話が鳴ることもしょっちゅうだった。無言電話だ。公用車がドライヴウェイに現れ、身なりのよい男たちが家を観察しては帰っていった。時には真夜中に、変な人たちが玄関先までも現れるようになった。私は380自動拳銃を妻のために、9mmを自身のために購入し防備した。私は妻に撃ち方を教えた。

アニーとプー(長女ドロシーのニックネーム)は私の人生の光だ。アニーとは1989年独立記念日(7月4日)に結婚をした。プーは翌年1990年5月30日に生まれた。12時間に及ぶ陣痛を経て分娩室へ入った時だ。アニーは痛み止めの薬を一切口にしなかった。自然分娩だった。残った力を振り絞り踏ん張った後、アニーは私に‘赤ちゃんはまだ出てこない?‘とそれは無垢で信頼しきった子供のような表情で私に尋ねる。本当の事を言うのは酷だが言うしかない。『いや、赤ちゃんは未だだ。。。』彼女は一瞬揺らいだようにみえた。しかし次の瞬間、落ち着きを取り戻し、愛情にあふれたまなざしを私に向けた。私は彼女の手を握る。彼女は深呼吸をする。そしてありったけの力を振り絞り、プッシュ!プーの頭が世に現れた瞬間だった。私は心から彼女を誇りに思う。彼女は私のヒーローだ。そしてプーはいつだって永遠に私の友である。

ある時期、私は脅迫されることに相当辟易し始めていた。縁石に停められている公用車につかつかと歩み寄っていった。車内にいる男に私の9ミリのピストルを見せ、こう言った。我々はこのような脅しにうんざりしている、と。もし私について知りたいことがあるのなら、家にあがって腰かけて、コーヒーでも飲みながら話そうじゃないか、と。これ以上家族に対して嫌がらせをするようなら、その時はこのピストルを使うことを何ら躊躇しないだろうとも。そしてその車の後ろに回り、ライセンスナンバーを念のため書き留めた。男はエンジンをふかし去っていった。その日以来、目だった監視は無くなった。しかし彼等はしつこかった。アリゾナに引っ越した事を私たちは誰にも明かしていなかった時だ。ドライヴウェイに差し掛かった時、公用車が再び我々の乗った車の後ろにピタリと現れたのだった。男が車から出てきて、こう言った。『道に迷ってしまったのですが、この家はどなたのお宅ですかね?』と。私は何故そんなことを知りたいのか、と逆に質問を投げかけた。男は国勢調査員を名乗り、どんな田舎でも調査の取りこぼしのないように確認するのが自分の仕事である、と説明した。彼は私の名前を聞いた。私は彼に向って敷地から出るように、そして二度と戻ってくるな、と言った。彼はすぐには従わなかったが、私が本気であることを知ると去っていった。(私はアニーに車の中のピストルを取り出してくれ、と言い出すばかりになっていた。)人によっては私が誇大妄想狂になったのでは、と思うかもしれない。しかし国勢調査員は公用車など絶対に運転したりしないのだ。ある朝、郵便局へ出かけて行った時だ。窓口で切手を買っていると、真横の窓口で群保安官代理がこう質問しているのが耳に入ってきた。ウィリアムクーパーはこの郵便局に私書箱を借りているか、と。窓口の人間が私の私書箱借り契約書を取り出しそのコピーを差し出したのには笑ってしまった。田舎に住んでいると住所など記載されていない。そのコピーには何の手掛かりになる情報も記載されていなかったのだ。私たちは、ありとあらゆる、屈折した詐欺師、テレビプロデユーサー、台本作者、作家、ペテン師に悪用され続けた。テレビ、印刷媒体、レポーターそしてプロデユーサーは嘘つきばかりだった。客観的なところは一つもなく真実など全く気にも掛けていないのだった。現在、公に残された公正なメデイアは、トークラジオくらいなものだろう。しかしそのトークラジオすら、特定の事柄に関しては取り上げたりしない。私の資料は、お金のために、時に複写され、変更され、盗作さえされた。ハリウッドプロデユーサーに至っては私のストーリーを1ドル!で専属で買いたい、と言ってきた。ビルハミルトンは『エイリアンマジック』という彼の本に私の資料を使わせてほしいと懇願してきた。彼は友人のフリが上手かったので私は彼に許可を与えた。報酬を求めもしなかったし、彼の方からも何も申し出がなかった。彼のお粗末な本は最初から最後まで誰か他の人の資料だけで成り立っていた。そうしておいて、彼は今となっては、私が彼の資料を盗んだ等と、のたまうのであった。ビルハミルトンもまた、ただのUFOきちがいでしかなかった。しかし最もひどかったのはマイケル・カラン(Micahel Callan)とダグラス・デイーン(Douglas Deane)だ。覚えているだろうか。カランは安っぽいテイーン向けの映画にレギュラー出演していたことがある。デイーンのほうは、ちょい役ばかりで出演していた。ある日、ブルース・リード(Bruce Reed)という男が、匿名希望の友人と一緒に会ってほしいと言ってきた。知らない人と他所で会うのは気が進まなかったので、自宅で会うことになった。リードとその匿名希望の友人は私の家に姿を現した。その友人こそがマイケル・カランだったのだ。彼らは私の資料を読んでおり、何とか力になりたいと申し出た。彼等は私が大勢の前で講演できるように取り計らうことができる、とのたまったのだ。カランは非常に饒舌だった。。5年間マネージメントする代わりに、私の収入の20%をもらう契約を持ち掛けてきた。6カ月でマネージメントの成果が上がらなければその場で契約は打ち切る、という内容だった。カランの最初にとった行動はパートナーであるはずのブルースリードを悪しく扱うことだった。彼はリードをこのプロジェクトからさっさと外したのだった。20%の手数料を独り占めするためにやったのだが、私には、リードは麻薬デイーラーだからはずしたのだ、とうそぶいた。リードが麻薬デイーラーであることはいずれ公に知れることになり、そうなるとそれは私に不利に働く、というのだった。このカランの話しはすべて嘘だった。今度は、前述の私の友人、スタン・バリングトン(Stan Barrington)が連絡をしてきて、何故自分をこの話からはずすのか、と言ってきた。私は何のことを言われているのかわからなかった。聞いてみると、またしてもカランがスタンにこの話しから降りるようにと言いがかりをつけてきたとのことだった。スタンに身を引かせ、私との契約を50-50に持っていきたかったのだ。スタンには契約を無効にする気など一切ない、と説明した。彼の取り分24%は永久に彼の取り分であり、売るなりなんなりいつでも自分の好きにしてよい、と念を押した。そんな経緯でカランのことを追い払うことになったのだった。ダグラス・デイーンとのつきあいは1989年1月7日に始まった。ラスヴェガスのショーボートホテル・カジノで私が講演をしていた時だった。講演の様子を録画するためにカランがダグラスを手配していたのだ。講演の録画テープはたくさんの人に作ってほしいと依頼されており、その人たちへ販売できるようにするためだった。契約内容は、彼がイベントの様子を録画したテープの著作権はすべて私にある、ということ。もしテープの出来栄えが良ければ、デイーンが新しくテープを製作する契約を結ぶ、というものだった。録画テープの出来栄えは最悪だった。こんな質の悪いものを売る気は毛頭無いと断った。彼等はいずれにせよ、裏で勝手に動画を作成した。ドイツ在住のプロデユーサーは、ドイツ本国での講演を予定してくれた。契約の安全のため、彼は3000ドルの小切手を送ってきてくれ、それを二人分のファーストクラスの飛行機代に充ててほしい、と言ってきた。講演は絶対にキャンセル無しということだった。ところがドイツで郵便ストライキが起こり、主催者は講演を宣伝する術が無くなったという理由で講演をキャンセルしてきたのだった。カランはその3000ドルも着服していた。その事についてもカランを解雇して初めて知ったのだった。サンデイエゴの講演では、デイーンが録画テープの販売を勝手に行っていて、その分も着服していた。もちろんすぐにデイーンも解雇した。カランに二度と一緒に仕事をしないと宣告した。マスターテープも取られてしまっていたが、それでも彼を解雇した。カランを解雇した時、彼は我々のもっているすべてを盗んでいた。我々は身ぐるみはがされてしまったのだ。彼は私の講演した録画のマスターテープすべてを取り上げていた。我々はこの時点で無一文、ホームレスに等しかった。ミネソタに数人友人がいてくれたお蔭で、ホームレスにならずにやっと切り抜けることができた。

カランとデイーンはその後も無断で録画テープの販売をし続けた。その販売収益の何一つ、私たちの収入にならなかった。彼ら以上に卑劣な詐欺師たちは存在しないだろう。私はそれでもマスターテープの返却を求めにデイーンの家を訪ねて行った。彼は留守で、彼の留守番をしている人間と話しをした後、仕方なく帰路についた。数日経った後、保安局から連絡があり、私がデイーンの家に行ったかどうか尋ねられた。私は行ったと正直に答えた。

数日後、私には『接近禁止命令』が出されていることがわかった。デイーンは私が再度戻ってくると思ったらしい。自分で自分の車のタイヤに裂けめを入れ、保安局へ被害届を出していたのだった。そして私への接近禁止命令を裁判所から獲得したのだった。最初から彼等の目的は、アメリカ国民に真実の知識を与えようとする私の奮闘をぶち壊すことだったのだ。彼等は確かに成功したかにみえた。

 

元祖デイープステート告発者、ウィリアム・クーパー氏 1-4

「behold the pale horse」の画像検索結果

私はその後、学校へ配属された。それは内部の警備専門家育成のための海軍保安・諜報機関学校だった。(NEC9545)全般のトレーニングでセキュリテイ―の境界、防犯設備と建物、核物質機密情報などの知識を学んでいった。特殊兵器、仕掛け爆弾、武装解除、盗聴器検出、電話盗聴器、送信機等々、様々な科目を学んでいったのだ。私は確実に、太平洋地域の極秘情報を扱うミーテイングを準備したり指揮したりするためのトレーニングを受けていたのだった。私は1968年に入学して以来、海軍を退くまでの間、一貫して海軍の保安・諜報機関で仕事をしたことになる。卒業後はベトナムへ移動となった。もう一年も前に志願していたのだった。いかれたガソリンタンカー任務より、戦場のほうがよほど私にとって好機があると思ったからである。新兵訓練所以来のチャンスだった。私は心底、お国のために戦いたかったのだ。この時の自分がなんて馬鹿だったのかと知ったのは数年先のことだった。私はダナンに降り立った。キャンプカーターまでバスに乗った。そこは第一軍団の海軍保安諜報の本部だった。カーター司令官の面接を受けた。キャンプ名と司令官の名前がたまたま一緒だった。司令官は私に巡視船長は務まるか、と聞いた。私は、はい、と答えた。はい、としか返答のしようがない。船と船員たちを指揮するなんて、冗談を言われているのかと思った。しかし冗談ではなかった。それで私はいきなり巡視船長になったのだった。海軍諜報部署の、港湾巡回のDuey 中尉は、私に自由に船員を選ばせてくれた。私と船員はそれから毎日3日間、ボートのことを隅々まで点検した。すべての調節を行ない微調整を怠らなかった。やすりをかけペンキを塗った。船室にカーテンをかける船員もいた。エンジンは入念に検査した。武器を検閲し、船の装備を進めた。本音を吐けば、それらの大量の銃を観ているだけで縮み上がりそうだった。戦時には戦闘艦のキャプテンとして船員のために最善を尽くそう、とその場で固く誓った。24時間で2-3時間だけ寝る習慣を身に着けた。船員が食べ終わるまで私は決して食物を口にしなかった。ダナンの港や川を巡回する夜は本当に不気味だった。ある夜などは、ダナン橋のふもと付近の弾薬庫にロケットが当たったことがあった。それは世紀末のような様相を呈した。海洋燃料場の近く、イザベラ地点の入江で敵と遭遇したこともあった。(以下省略)

このベトナムに任務していた時、特に非武装地帯において、私はいつもいつもUFOの活動に気づいていた。私たちはメッセージを暗号化させるための暗号コードシートを持っていた。どんなことで情報が敵の手に渡るとも知れなかったので、国家機密に関わることに関しては特別なコードワードを使用していた。UFO関連事項は、まさしく国家機密に関わる重要事項だった。UFOが頭上に空中停止していたと思ったらその下にある村全体の住民たち全員が消えていなくなった、という事件もあった。それこそ、冗談抜きに国家機密に関わる重要事項だったわけである。両陣営がUFOに発砲することもあった。そして決まって不思議な青い光線で反撃されるのだった。UFOが兵士を二人誘拐し、バラバラ死体にして茂みに落としていった、などという噂もたった。誰も噂の真偽は知らなかった。私と言えば、噂が根強くあるということは、何等かの真実がそこにはあるのかな、と思っていた。後に、これらの噂の殆どが真実である、とわかった。

やがて私はハワイに戻された。今度の任務は真珠湾の丘、マカラパにある、太平洋艦隊司令官の本部における陸上勤務だった。私は空軍の機密情報取り扱い許可証を所持した。艦隊総務課に届け出た時、さらなる許可証のためのフォームに記入しなくてはいけなかった。そのフォームの質問事項には『あなたはこれまでに、いかなる友愛組織に所属したことがあるか?』という項目があったのを憶えている。私はそのリストの中にあった、『DeMolay Society』という名前のところにチェックを入れた。何らそれに対してネガテイヴな気持ちはなかった。FBIによる身元調査が終わるまでの間、Mercado中尉の下、作戦状態報告事務所(OPSTAT)に配属された。その六か月後、晴れて海軍情報部の参謀長室へ配属となった。しかし、まさにその日、私は、海軍情報部がネデイ大統領暗殺に関わっていた事実、そしてケネデイ大統領の頭を撃ち抜いたのは、その時のリムジン運転手を務めていたシークレットサービスのエイジェントであった、という事実を知らされたのであった。私は2度と任務に戻らないつもりで、無届で外出をした。私の良き友人であった、ボブ・スワンは軍に戻るように説得してくれた。彼にはその後、1972年6月1日、私の最初の結婚の前夜、すべてを打ち明けた。UFOのこと、ケネデイ大統領暗殺事件の真相、ガリレオ計画、ニューワールドオーダー計画等々、知っている全てを話したのだった。その時もそれらが真実であると疑わなかったが、今となってはそれは紛れもなく真実であることを私は知っている。そして、一つだけ読者に警告をしておかなくてはいけない。シークレットソサエティー(秘密結社)が1917年にまで遡り、人工的に演出した『エイリアンの侵略に立ち向かうために、人類は一つの政府に統合されなくてはならない』、というニューワールドオーダー、という名の策略をすでにプランしているという事実についてだ。私は今だに真実を模索し続けている。この本は今までに書かれた本の中で、一番その真実に近いものである、と私は確信している。私は解雇された後、何度か新聞記者などに情報をリークしようとした。すると、ある日私は、オークランドの丘の上で、黒いリムジンによって崖から突き落とされてしまった。リムジンから降りてきた二人の男たちは、血まみれになって倒れている私のところまで降りてきた。一人はひざまずき私の頸動脈パルスをはかっている。片方の男が『死んだか?』と言っているのが聞こえた。『いや、まだ生きている、しかし直に死ぬさ。』『よし、じゃあこれ以上何もしなくてよさそうだな。』と言い残し、崖を上がって車で去って行った。私は何とか必死に土手を這い上がり、誰かに発見されるまでそこに倒れていた。それからひと月ほどたったある日、また同じリムジンによる事故に見舞われた。この時は脚を1本やられてしまった。例の男二人がご丁寧に病院まで見舞いに訪れた。彼等は今度こそ私が口を紡がなければ命はない、と言ってきた。私は彼等に、これからはいい子になるから心配ない、と告げた。私は心の中では、何時か今度こそ安全を確保した暁には、絶対に(暴露を)やりとげてみせる、と心に固く誓っていた。それには16年という歳月、そして27,000ドルという経費、そしてコンピューター、大量な封筒が必要だった。私は海軍を除隊した後、学校に戻った。写真技術を習得したのだ。深海潜水スクールの主任インストラクターを務めたり、海洋大学の水中撮影インストラクター、アデルフィビジネスカレッジや太平洋岸技術研究所、国立専門学校などの事務局長を歴任した。自分で写真スタジオやギャラリーも経営したりした。そうしたある日の、1988年の春、ムーア、シャンデラフリードマン等のリサーチチームが発見したとする文書に関連した記事が掲載された雑誌を眼にした。それには、円盤やらエイリアン、マジェステイック12と呼ばれる作戦本部に関して、政府の見解が解説されていた。私はムーアもフリードマンも政府のエイジェントであり、文書が偽物だということを知っていた。シャンデラという名前はその時初めて知った。私は以前、マジェステイック(MAJESTIC)と呼ばれる緊急事態対応計画を開始させるためのエイジェントのリストを閲覧したことがあったのだ。それはゆくゆく必要になった時、捜査をくらますことが目的とされて作られた組織だったのだ。(続く)

元祖デイープステート告発者、ウィリアム・クーパー氏 1-3

 

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二つ目の出来事は、他の潜水艦たちが魚雷演習をしていた日のことだった。展望塔に大きな防水シートが被せられた潜水艦が入港してくるのが見えた。防水シートを展望塔の両側から支えている何かが見え隠れしていたが、それが何であるのかはわからなかった。後でジェロニモリンカーンの3人で、その潜水艦が停泊しているところに出かけて行って、その防水シートの下をめくって見てみることになった。するとそれは魚雷に撃ち抜かれた潜水艦の背びれだったのである。仲間内の魚雷演習で、一方の潜水艦が見事にもう一方の潜水艦の背びれを撃ち抜いていたのだ。私たちはその場で笑い転げてしまった。しかし笑いながら、これは笑い事ではない、と顔を見合わせながら3人は真顔にもどっていった。潜水艦勤務は、思い描いていたほど素敵なものではなかった。

そして、あの3番目の出来事、だ。それはポートランド・シアトルと真珠湾の間の海洋を航海していた時の事だった。私は午後の当直勤務で左舷の見張り番が担当だった。ジェロニモは右舷の見張り番をしていた。少佐が看板部士官を務めていた。潜水艦は、海上を10ノットで走行していた。ジョロニモ、リンカーンと私の3人は潜水艦上のブリッジにいた。雲は少なく、よく晴れ渡った日だった。涼しかった。リンカーンは階下に降りて行った。ジェロニモと私は艦体の前から後ろ、地平線から空、天頂まで、終わることのない監視業務を延々と続けていた。繰り返し繰り返し監視を続ける、そして眼を休ませるために小休止。私は少佐にコーヒーを頼んだ。少佐が1MC(コミュニケーションツール)に身をかがめた時だった。私は双眼鏡を再び持ち上げ眼にあてた。その時だ。巨大なデイスクが海洋から昇ってくるのが目に飛び込んできた。その周りの空気から水しぶきがほとばしり流れている。その物体はゆっくりと軸を変え、雲の中に消えていった。私の心臓は高鳴った。言葉を発しようにも固まったままだ。いや、話さない方がよい、と心は変化していた。今、目の前で空母ほどの大きさの円盤が海中から飛び出し、雲の中に消えていったなんて、そんな誰も信じない話しをするのは止めた、と決心した。私はすばやく、私の他に誰かこれを目撃した者がいないか、辺りを見回した。少佐はずっと1MCに屈んだままだ。コーヒーを注文しているのだから。ジェロニモと言えば、後尾の左舷のあたりを見下ろしている。私はこれを報告すべきか、報告しても誰も信じる者はいないだろう、等という葛藤の中で板挟みになった。再び目を海洋に戻してみる。そこにはただ、空と雲と海があるだけだった。何事も起きなかったかのようだ。私は夢をみたのではなかったのか。少佐が上体を起こしジェロニモに向かってコーヒーはもうじき出来るよ、と言っている。私は再び、左舷船首から約、相対的に15度、約2.5海里のその問題のスポットに目を戻した。何の形跡もなかった。私は遂に『少佐、私は左舷船首から15度のあたりで何かを観たのですが、見失ってしまいました。』と声をあげた。『その方面を一緒に観てもらえませんか?』少佐が振り返り、双眼鏡を持ち上げ眼にあてた。その時は気づかなかったが、ジェロニモも私のその声を聴いて双眼鏡を眼にあてていた。その時、何かが、これまでの単調な一本調子を突き破った。私も双眼鏡を持ち上げ、ちょうど眼にあてた時だった。巨大な、円盤の形をしたものが、雲の中から飛び出し、角度を変え、海面を押し、海洋に穴をあけ、視界から消えていったのだった。信じられない光景だった。この時は裸眼で確かめることが出来た。例えることなど出来ない、何事とも比べることなど出来ない光景だった。少佐はショックのまま立ち尽くしている。双眼鏡を手にしたまま、口をポカーンと開けたままだ。ジェロニモが叫ぶ。『Holy Shit!やっべー、何だ、これって、おい、お前、今のみたか?』少佐は、信じられない、といった顔で私を見ながら低い声でこう言った。『私が指揮を執る。』少佐は直ちに1MCのオーバーライドを押し、『部隊長、船橋へ!部隊長、船橋へ!』と叫んだ。そしてその後もう一度スウィッチを押し『誰か、カメラをもってきてくれ!』と叫んだ。部隊長が階段を駆け上ってくる。その後に需品系将校が続く。需品系将校である、クインテロは35ミリカメラを首から下げている。部隊長は、少佐が事の顛末を説明するのを根気よく立って聞いていた。彼は我々のほうへ眼をやる。我々は、その通り、と頷く。それで十分だった。部隊長は1MCにアナウンスをかけ、こう言った。『こちら部隊長、今後の操舵の指揮を執る。』ただちに舵士から『 アイ、アイ、サー!』の声が上がった。この出来事は艦内で噂となって広がっていった。部隊長はレーダーを注意深く監視するよう命じた。我々5人(私、ジェロニモ、少佐、部隊長、需品系将校)が海洋をじっとみつめていると、またしても同じ円盤、もしくは全く同じ形態の‘物‘が、ゆらゆらと海面から姿を現したかと思ったら、空で向きを変え、軸を傾け、消えて見えなくなった。需品系将校がそれを写真に収めるのを私は目の端のほうで確認していた。この時までに私の中で、3つの結論的なイメージが出来上がった。その物体は、間違いなく金属で出来たマシーンであるということ。そしてその物体は誰かによって操縦されていた、ということ。鈍いピューターのような色だったということ。ライトが無かったこと。舷窓のような一列のラインを観たと思ったが、これについては100%の確信はない。この物体は何度も海面から上がってきては雲に隠れ、また姿を現したかと思えば海面下に消えていった。それを何度も何度も繰り返したのだ。それが10分ほど繰り返された後、その物体は永遠に姿を消したのだった。船橋から降りる前に部隊長は需品系将校からカメラをもらい受け、今、ここで観たことを決して口外しないように、と全員に指示した。事は機密条項にあたり、これについて仲間内でしゃべったりしないよう、またここにいる誰とも今後これについてしゃべることのないように、と指示を出した。我々はその命令を承認した。パールハーバーに入港後も、このUFOを目撃した我々だけは上陸を許されないで、艦内にとどめ置かれた。2時間ほど経過した。すると海軍諜報機関の司令官が乗船してきた。彼は部隊長の専用室へ直行した。まもなく我々全員が、部隊長専用室の真ん前の廊下に呼び出された。少佐がまず中へ呼ばれる。10分ほどで終わり上級士官室へ戻って行った。その顔は震えているように見えた。次は私の番だった。私が部屋へ入っていくと、その司令官は私の勤務記録を手にもっていた。彼は、私が何故空軍から海軍へ編入したのか、と尋ねた。私はことのいきさつを話した。あれだけ船酔いのことを心配していたが、入隊以来船酔いを一度も経験していないと告げると彼は可笑しそうに笑った。急に彼の本当の顔が姿を現した。私の眼を真っすぐに見ながらこう聞いた。『お前はそれで何を眼にしたのか?』私は答えた。『多分、円盤を目撃したと思うのであります。』男は目に見えて震えだし、不愉快極まりないといった調子で怒鳴りだした。そして今後死ぬまで拘置所から出られなくなるぞ、と脅すのだった。男の怒鳴り声は永遠に止みそうにない、と思った瞬間、怒鳴り声はピタリと止まった。私は混乱していた。私は上官の質問に真正直に答えたのだ。しかし結果、一生拘置所行きだと脅される。怖かったわけではないが、確信もなかった。別の答え方のほうが賢明だ、と咄嗟に理解した。18年の父親の教育、そして4年の海軍の経験から、たった一つ重要なことを学んでいた。それは、上官は決してこのように平静を失ったりなどしない、ということだった。二つ目は、今の私の答えがそれほどまでに上官のお気に召さなかったということは、全く正反対の答え方をしたほうが身のためではないか、ということ。そして三つ目は、そのように仕向けるように上官はわざわざ親切で演技をしてくれているのではないか?、ということだった。『ではもう一度初めからやり直しだ。さて、お前は何を観たのかな?』

『何も観ておりません!』と私は答えた。『何一つ観ておりません!!そして出来れば、出来るだけ早く(兵舎へ)返していただけないでしょうか?!』と付け加えた。途端に司令官の顔がほころびる。部隊長もほっとした面持ちだ。『それは本当だな?、クーパー?』『はい、本当のことであります!』と私。『クーパー、お前は良い海軍兵だ。海軍はまさにお前のような男を必要としているのだ。きっと出世するぞ。』そして彼は紙に書かれた文書を私に読ませた。その文書には大体以下の様な内容が書かれていた。『私が今後、観なかったものを観たなどと口外した場合、上限1万ドルの罰金、最長10年の禁固刑、またはその両方が課せられる。』と。それに加え、すべての給金、手当が無効になる、とも書かれていた。私はその紙に署名をした。そしてやっとその場の退出が許可され兵舎へ戻された。この後、私は潜水艦業務を離れ、USS Tombigbeeに配属となった。Tombigbeeはガソリンタンカーだった。潜水艦より危険な業務だ。部隊長は気が狂った奴だったし、乗組員は全員、馬鹿か不適合者ばかりだった。一度、海員が将校を襲うのを、下士官としてピストルを抜いてその場を収めなければいけなかったこともある。Tombigbeeは、真夜中に、モロカイ海峡で駆逐艦と衝突事故を起こし駆逐艦は殆ど真っ二つに割れ、7~8名の死者を出した時があった。タンカー乗船の毎日は『Mr Roberts』という映画のシーンそのものだった。私は航海専門家を目指し、2等海曹に昇進した。

(続く)



元祖デイープステート告発者、ウィリアム・クーパー氏 1-2

 

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私は1961年に日本のヤマトハイスクールを卒業した。その秋に空軍に入隊した。

私は乗り物酔いと船酔いが昔から激しいので海軍への道はあきらめたのだ。テキサス州のラックランド空軍基地、アマリロ空軍基地で基礎を積んだ。プログラム終了後、次はウィチタフォールズの近くにあるシェパード空軍基地で爆撃機戦略空軍に配属された。ほんの世間知らずでやせ細ったただのガキだった私が、ほんの短期間で、機密情報を扱い、B-52戦略爆撃機、KC-135給油機、ミニットマンミサイルに取り組むまでのいっぱしの飛行士に成長していた。本物の原子爆弾もみたことがある。原子爆弾のある環境で毎日任務についていたのだ。だから万が一被ばくした時のため、放射線量計を身に着けていなければいけなかった。私たちは、自他ともに認める、その時代の空軍のエリート集団だったのだ。表彰状ももらった。やがて国防従軍記章、空軍善行メダルも授与された。でも、実は、メダル無しで隊列を組むのは恰好がつかない話しなので、この国防従軍記章は皆に授与されていたと思う。この頃、とても影響を受けた二人の軍曹に出会っている。一緒にクラブに出かけ、ナンパをし、ビールをたくさん飲んだものだ。彼等は、何回か、墜落した円盤を回収するための特別任務についた話しをしてくれたことがある。ミースという名前のその軍曹は、墜落した円盤があまりにも大きいので、前もって電柱やフェンスの支柱を引き下げたりする作業をするチームが派遣された後、彼等特殊部隊が出動した、と話してくれた。作業は決まって夜行われた。日中の間、道路からはずれたところにカバーが施され一時保管された。そんな話しが出るときは決まって皆酔っぱらっていたので、私はその頃は余興と思って本気にしたことはなかった。。軍曹というものは下っ端をつかまえて、決まって、『でまかせ』を言うものだったのだ。

1963年11月22日、修理戦隊のために下士官兵として任務にあたっていた時だった。殆どの隊員はフラインテイング作業に出かけていたり、第一軍曹もどこかに出かけていたりで、私は一人兵舎に残されていた。私は、その日、ダラスで行われる大統領のパレードの生中継を観てみようと中隊事務所に置かれているテレビにスウィッチを入れた。信じられないことが起こった。私の、まさに目の前に映し出されているシーンを信じられない思いでじっとみつめるばかりだった。一体これは、何?暗殺?腕も脚もマヒしてしまったかのようだった。マインドはこの事実を到底受け入れることなどできない。私の髪の毛は総毛立ち、ぞくっとした悪寒が背骨をすうっと通り抜けた。私の目の前で、ケネデイ大統領は、銃撃されたのだった。

大粒の涙が滝のように流れた。感情の波が襲い掛かってきた。何かしなければ、と咄嗟に思いたち、指令センターへ連絡すべく受話器をとった。涙をこらえる。指揮官が電話に出た。私はたった今、ケネデイ大統領が撃たれたことを告げた。彼は『どうしてそのことを知っているのか?』と尋ねた。私は『たった今、テレビで観たのです。』と答え、受話器を置いた。全身、寒気に襲われたようだった。数分後、指令センターの指揮官から折り返し電話があり、非常警報防衛準備態勢を命じられた。ジェットエンジンの轟音とともに、乗組員は滑走路に進み離陸体制に入った。私は死ぬほどの恐怖に襲われながら、兵舎から兵舎へ夜勤から戻って休んでいる隊員たちを起こしに走り回った。そして最初のロシアから発射される原子爆弾がここに落ちるまでにもう15分の猶予しかない、と聞かされた。中隊事務所のドアをロックする時間すらなかった。車に飛び乗り、戦略空軍の敷地まで車を走らせた。翌3日間は原子爆弾を積んだB52爆撃機の下で、爆弾倉をみつめながら寝泊まりした。遂に大変な局面を迎えた、と思った。警戒警報が終了したときは心底ほっとした。私はその後、1965年、空軍を名誉除隊したのだった。同年12月、私は晴れて海軍に入隊した。海は昔から大好きだった。少年のころは実は船乗りになりたかったくらいだ。この際、船酔いのことは忘れ、海軍に入ることを決断したのだった。新兵訓練所はサンデイエゴにある海軍操練所だった。すでに空軍の経験があったので、新兵の最高司令官に任命された。階級と給料が同額支給されたのだ。いい奴達ばかりだった。キャンベル司令官も素晴らしい人だった。教えることだけが趣味、そんな人だった。私たちが必要とする知識をしっかりと教えゆくゆく困らないようにしてくれた。目論見もひけらかしたところも微塵もない、真に、我々の味方だった。

新兵訓練所にいたころ、潜水艦に志願した。志願は受け入れられ、訓練終了後、ハワイ真珠湾の潜水艦基地USS Tiru (SS-416)に配属された。本当に幸運だった。指令を受け取ったときは信じられない気持ちだった。海軍で夢を叶えるのだ、と胸が躍った。一番配属されたかったその希望の場所に最初から抜擢されたのだった。しかもハワイのトロピカルな楽天地だ。私は有頂天だった。私はハワイに到着するなりタクシーで潜水艦基地へ向かった。しかし肝心の潜水艦がみつからない。いろいろ聞きまわり、海軍造船所のほうにその潜水艦があることがわかり、またしてもタクシーを呼んでそちらへ向かった。埠頭に降り立った。そこには、日本軍の真珠湾攻撃以来、全く清掃されていないままの情景が広がっていた。ホース、巨大な電気ケーブル、ありとあらゆる大きさの錆びた金属などが原型をとどめない形で放置されていた。デイーゼル、溶接煙、ペンキ、鉄、そんなような臭いがたちこめていた。地獄のような有様だった。私は埠頭の端のほうまで歩いて行った。乾ドックを見下ろしてみた。すべての尊厳をはく奪されたかのような無残な、真っ二つに割れた姿で横たわっていた物体、それが私の配属された潜水艦、USS Tiruだった。作業をしている人たちが這いまわっていた。何だか死んだ殿様バッタに群がったアリのように見えた。信じられない光景だった。私の幸運はつきたかのようだった。私はその向こう側にある、停泊された兵舎のはしけに到着を報告した。勤務のためのハンモックが支給され、そこから次級基地兵舎へ連れていかれ、そこで自分の棚とロッカーが割り当てられた。ホノルルへ行ってみたかったのだが、そのような自由は許されていないという事がすぐに解った。`幸運‘は徐々に悪化していった。

最初数カ月は、ひたすら研磨、ペンキ塗り、ボートを吊り上げたり、ボート練習したりの毎日だった。乗組員は皆いい奴ばかりだった。コック長を除けば。コック長は朝から晩まで飲んだくれていた。私は彼から嫌われており、お蔭で割り当てられる食事がいつも少なかった。初日の朝から嫌われてしまったようだった。何故あれほど嫌われていたのか今でもよくわからない。艦長にこの件について相談しに行く手もあったのだが、それは配属変更を申し出るようなものだったので相談に行かなかったのだ。私は料理長の酒の隠し場所をすぐに見つけることに成功した。私は隠されていたウォッカにちょっとしたいたずらを施した。どんなことをしたかはこの際秘密にしておく。料理長はそれ以来、死ぬほど悪酔いするようになり、体調不良を理由に配属変更となった。本当はこんなことはしたくなかった。が、これは、私の餓死するかしないかの瀬戸際の攻防だった。食料無くして海上勤務はできないのだ!それに潜水艦が水中へ潜るとき、主吸気弁をしっかりと完全に閉めなければいけないのだが、それはそのアル中コック長の任務だったのだ。主吸気弁をしっかりと閉めることは致命的に大切なことだ。そうでなければ、船内に水が浸水して乗組員皆、溺れ死んでしまう。その一番重要な主吸気弁はUSS Tiruの厨房に位置していたので、その酔っ払いの任務だったのである。

潜水艦Tiru任務の間、二人の特別な仲間が出来た。一人は黒人の船員、リンカーン。そしてもう一人はアメリカインデイアン、ジェロニモだ。いつも我々3人は一緒だった。3人の中でジェロニモが一番経験豊富な船員だった。彼はいつもリンカーンと私に、船舶、ロープ、ペンキ等々、海軍で生き抜くために必要なことを何でも教えてくれた。私はといえば、軍隊については何でも来いだったので、それらの知識を彼等に教えた。リンカーンは、島で遊べるいいところは熟知していたので、自由時間で遊びに出かける時はいつも彼が先頭に立って連れて行ってくれた。Tiru勤務の間、3つの忘れられない出来事があった。一つは、オアフ島沖合、600フィート深海を3~4ノットの速度で試運転をしていた時のことだった。リンカーンと私がちょうど当直交代になった時だ。仰天するようなことが起こったのだ。ガーンという大きな音がしたかと思えば、次にぞっとするような音が起こった。何かに衝突した結果、船体の右舷もろともこすってしまったのだ。全身の血の気が引く思いだった。リンカーンと私は凍りついた。金属と金属がこすれあう音を聞くたびに息がとまった。時間が止まったかのようだった。艦内にいる誰もが凍りついていた。やがて艦体が傾き、後方の雑音がおさまった。もしあの時、艦体に穴が開いてしまっていたら、我らは誰も生還できなかっただろう。その後、真珠湾にもどり、潜水士が調査に潜った。右舷の船首平面が損傷し、艦体は右舷の側面から船首、船尾にかけて、へこみができていることが判明した。我々は早速修理に取り掛かり、潜水艦は数日で元の状態に戻った。しかしこの経験は私の人生観を根本から変えるものとなった。 (続く)

元祖デイープステート告発者、ウィリアム・クーパー氏 1-1

1991年に出版された、ウィリアム・クーパー氏が綴った『Behold a pale horse』というデイープステート・UFO研究家にとっては古典的な存在の本がある。彼等にとってクーパー氏は常識中の常識、ヒーロー中のヒーロー、まさに草分け的存在だ。そもそも氏が, 軍が長くその存在すら否定し続けていた『エリア51』をいち早く世に広めたのだ。驚くことに、2001年9.11の予告も、その半年前から自身の有線放送で正確に警告をしていた。『我々自身の政府が、オサマ・ビン・ラデインという男の名前を使ってテロを起こすことを画策している。』と。結果、彼はその年の11月に命を落とすことになる。ここでは『Behold a pale horse』の序章の略を私自身の訳により紹介してみたいと思う。クーパー氏の生い立ち、軍の経歴、そして何故氏が軍を去り、フリージャーナリストに転向し、命がけの啓発活動を始めることになったのか。それを是非多くの方に知っていただきたい、と願っている。

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William Cooper 著 Behold a pale horse 1991

 

〔序章より抜粋〕

何故、人が私の個人的情報を知りたいと思うのか理解に苦しむ。私は一度でも『誰かのヒーローになってやる。』などと思ったことは無い。誰かの人生の模範となるような、そんな大それた人間ではない。私は至って平均的な、普通の人間なのである。ただ、一つ確実に言えることは、私はいかなるものをも祭り上げたり、崇拝したりすることは絶対に無い、ということである。私はただ、あなたに伝えたい『メッセージ』を持っているだけだ。そしてその『メッセージ』は多分、殆どの人にとって受け入れ難いものであろう。しかし、もしこのメッセージを受け取ってくれる人がいるとすれば、私はあなたの真の兄弟である。そして我々が力をあわせれば、未来をより良いものに変えていくことが、ひょっとしたらできるかもしれない。。。

ウィリアム・ムーアという人間が私を貶めるために書いた『フォーカス』という本には、私が原理主義を説く伝道者だ、と記されいたが、念のために言っておく。私は伝道者でもなければ何か宗教活動を始めようとしているわけでもない。どんな団体にも所属していないし取り巻きもいない。またある時は、ラジオ番組で、私は極右翼であるとか、共産党員のリストに名を連ねているとか、人種差別者であるとか、アルコール中毒患者であるとか、さんざんに言われてきた。真実をはっきりと述べよう。私の政治的信条は『憲法』。これだけである。私の妻は中国人である。私はベトナム戦争共産党と戦った元軍人だ。もしまた戦わなければならない事態に陥ったとしたら、私はまた戦うだろう。しかしそれは自分の『本土』を衛るために、だけだ。若いころは浴びるようにアルコールを飲んでいた時期もある。しかし今は妻と作る料理に、クッキングワインを入れるくらいで、酒は殆ど口にしない。

こういった誹謗・中傷はこれからもずっと続くだろう。それらが例え『事実』であったとしても、それによって、私が記す内容の真実性を曲げることにはならない。だから大いにその誹謗・中傷を信じればいい。信じた上で私の主張していることを注意深く検閲してみて欲しい。そうすれば、その中に、矛盾が無いことにきっと気が付くはずである。

私の祖先は、英国人やスコットランド人、アイルランド人である。私には南北戦争で、南側についた親族もいれば、北側についた親族もいる。インデイアン戦争で戦ったものもいる。テキサスの馬泥棒なんていうのもいた。さだかではないが、絞首刑になったようだ。子供のころに、チェロキー族の血も混じっているとかすかに聞いた覚えがある。だが、それについて詳しく聞こうとすると、おだまりなさい!とたしなめられたものだ。インデイアンの血が混じっていることがそんなに不名誉なことなのか、私には理解できなかった。私は今だってそれをとても誇らしく思っているのだが。私の父方の會祖父は幌馬車に乗ってテキサス州入りし、オデッサに移住した、初期の入植者である。生粋のカウボーイであり、後に、最初の油田労働者となった。私の會祖父が、革のベルトにピストルを刺した格好で、飲み屋の横に立った姿で収まっている写真が今でも残っている。ある日、會祖父が牧場へ働きに出かけていて留守中の出来事だった。その頃はインデイアンとの抗争が激しさを増していた時期だった。會祖母はまだ新婚ほやほやの若い女性だった。ある日の早朝、起床すると、隣の村で火があがっているのがみえた。まもなく5人の若いインデイアンたちが軒先に姿を現した。死ぬほどの恐ろしさだった。しかし怖がっていることをみせればきっと殺されるに違いないと思った彼女は、彼等に馬から降りるように言い、家の中に招き入れ、食事を与えたのだった。彼等はお腹が一杯になると何の狼藉を働くことなくその場を立ち去った。彼等が去った方角で、その午後、のろしがあがった。あとでわかったことだが、その日、そのあたりで、無傷ですんだのは彼女だけだったとのことだった。私の會祖母はとても勇敢な女性だったのだ。會祖母は私にその話しをしてくれた後まもなく、交通事故で亡くなった。彼女の人生は幌馬車で始まり、フォード車、そしてボーイング707で幕を閉じたのだった。私の父方の祖父の家族も幌馬車で大陸を横断し、いまだインデイアン領であったオクラホマへ落ち着いた。オクラホマ開拓ラッシュの最前線で320エーカーの土地を確保することに成功した。今、イーニッドと呼ばれている場所である。夫婦は子沢山だった。私は、會祖母がみたこともないくらい大量の朝食を料理していたのを今でも憶えている。私が父からクリスマスプレゼントにもらったライフルで、人生初の狩りをしたのもこの會祖父の農場でだった。朝が明けるのも待てずにこっそり起きだし、小川のほうへ出かけて行った。2時間くらい経った時、木に停まっているうずらを打ち落とすことに成功した。得意になって帰宅すると、農場の小作人がそれを見て『ぼうや、すすめなんか撃ち落してどうするの?』と笑い転げて言うのだった。それは、『うずら』ではなく『すずめ』だったのだ。私は恥ずかしくなって誰にも分らないようにそれを土に埋めてしまった。うずらは、木には停まらないらしい。こんな話しをすると、なんて残酷な!と非難する人もいるだろう。しかしその頃は、少年がライフルをプレゼントされ、狩りをするということは至極当たり前のことだったのだ。狩りのシーズンには、そうやって息子たちが仕留めてくる食料のおかげで、家庭は少し出費を抑え貯蓄に回すことができたのだった。憲法第2条を護り実践するためにも、市民が銃を所有することは良しとされていたのである。市民が銃を所有していれば、政府が市民を圧制することは難しいのだ。私の母方の家族はスコットランドからノースキャロライナへ入植した。働き者で質素な家族だった。貧しかったらしい。母方の話しはあまり聞いたことがないので詳しく知らないのだが、祖母は祖父が亡くなって、子供を何人か手放さなくてはいけなかったらしい。子供たちを全員養育するお金が無かったのだ。私の母はそう言ったわけで、事態が好転するまで児童養護施設に預けられた。祖父は家族内であまり評判が良くない。良い話しを聞いたことがない。いずれにせよ、私は祖父が亡くなってから生まれている。私は1943年5月6日に生まれた。私は軍人の家に生まれたのだ。父はアメリカ空軍の大佐だった。彼は複葉機の操縦士として空軍歴をスタートさせたのだった。私は父が耳おおいのついた帽子をかぶり、革のジャケットを着て複葉機の前に佇んでいる姿の写真を今でも大事にもっている。たまに、父の仲間のパイロットたちが家の台所で、飛行機の話しに花を咲かせていたのを憶えている。時々、彼等は、『フーファイター』や『UFO』と呼ばれる物体について話していた。時々、投射器を出して空軍のスライドをみせてくれたりしたものだ。それは本当に楽しみだった。私自身、8歳になる頃までには、ありとあらゆる空軍が所有している実物の飛行機を観に行ったり、飛行機の中に入って見学する経験をもった。父の多くの仲間が飛行機事故で亡くなった。ポルトガルアゾレス諸島、ラジェス航空基地に滞在していたある夜、基地の映画館で映画を観ていた時だった。惨事が起こった。B29が墜落したのだった。離陸した時か着陸した時かは忘れたが、この時の光景は一生忘れることができない。何だか急に大人になったような気持になった。墜落事故はそれから何度も目撃することになる。父が生きて家に帰ってくる、ということがどんなに幸運なことなのか身をもって知ったのだった。その頃は、まだ飛行機は安全な乗り物ではなかったのである。空軍のパイロットは大変危険な職業だったのだ。

かといって私はいつもいつも父が大好きだったわけではない。父は相当厳しい人だった。父のベルトはいつも傍にあった。父に、子供を『棒でしつける。』という考えは無かったようだ。私はとても感受性が強く頑固だった。ルールに従う、という従順なところがなかったのでたびたび父の雷が落ちたものだ。幼い私は父のことを、暴君だと思った時も限りない。今では父のそうした厳しい躾けに心から感謝している。父の厳しい躾けがなかったら、きっと不良になっていたであろうことは疑う余地もないところだ。今、私は父のことが大好きである。彼は私のよき味方である。独立心が強く、社交的で、威勢がよく、たくましく、自信に満ちていて、冒険好きで、ちょっと横柄なところもあり、ハンサムで、大きなクマのような男なのだ。母は言ったものだ。父がジョン・ウェインのようにハンサムだったから恋に落ちたのだと。確かに似ている。私の母は典型的な南部の女性である。人は彼女のことを南部の品の良いご婦人、と呼んだりする。母のような古き良き女性は消えつつある。男が孤独を感じる時、母のような女性が傍にいてくれることは、きっと誰しもが夢に描くことだ。こんなにも親切で優しい女性を私は他に知らない。自分の母だから言っているのではない。これは本当のことなのだ。若い時も美しかったが、年老いた今も美しい女性だ。度が過ぎるほど誠実なのだ。良いときも悪いときも、決してひるむことのない女性だ。いつの時も、たくましく、と同時に親切で優しく、愛情豊かなのだ。料理も天下一品だ。私は多分、世界中の誰よりもこの母のことが大好きなのだ。私にはローニーという弟とコーニーという妹がいる。私より2歳下の二卵性双生児である。父の海外勤務が多かったため、私たちは海外生活が長かった。それで兄弟仲は普通よりとても密接だったと思う。他の子供たちと遊ぼうにも海外では言葉が通じない子たちばかりだったからである。学校の友達は出来たが、学校も遠いところにあった。殆どおもちゃも買ってもらえなかった。クリスマスは楽しみだった。ひさしぶりにおもちゃを買ってもらえたからだ。ロニーは今、妻のスージーと娘のジェニファーの3人でオクラホマ州のガーバーに住んでいる。農機具の販売業で生計を立てていて、彼等二人で立てた家に住んでいる。その家は彼等の終の棲家になりそうだ。ロニーは、元々は軍の将校だった。ベトナム戦争では銀星章を授与された。私が脚を失う事故に見舞われた時は、お見舞いに来てくれた。その1976年以来、彼に会っていない。仕事関連の出張でない限り、お互い飛行機で訪ねあうのは痛い出費なのだ。でもそのうち急に訪ねて行ってびっくりさせてやろうと思っている。。彼はそういえば會祖父によく顔が似ている。妹のコーニーはこれまた素晴らしい女性に成長した。幼いころ、コーニーは私の後ろばかりついてまわった。どんなに追い払おうとしてもしつこくおっかけてきたものだ。かわいくて仕方のない妹だったが、私はそんな事おくびにも表情に出さなかったものだ。コーニーが大人になるにつれ不思議な現象が起こった。時々怒りっぽくヒステリーになったのだ。ロニーと私が首をかしげていると、母が優しく‘ホルモンのせいなのよ‘と教えてくれた。コニーは美しい女性に成長し、高校の時のボーイフレンドとめでたく結婚した。子供が二人いる。 (続く)

引き続き、大統領選!デイヴィッド・ウィルコック氏ライヴより

引き続き大統領選のレポートを続ける。まだこの戦いは全く終わってなどいないのだ。 

120日就任式前後、いくつも通常では考えられないことが起こっていたことについて調査し、リストしてみる。 

 

●まず前大統領(トランプ)のお出迎え無しでバイデンはDC入りしなくてはいけなかった。これは原子爆弾のコードの入ったバッグ(核のフットボールを手渡さない、という意味もあったようである。トランプは、そのバッグをフロリダに持って行ってしまったようである。こんなことは史上かつてなかったことだ。通常は前大統領から新大統領へ引き継がれるものなのだ。 

●トランプは最後まで次政権のことを、『バイデン』政権とは一言も発せずじまい。 

新しい政権への移行、という表現にとどめ、バイデンの名前は一切口にすることはなかった。 

●バイデンはミリタリーのエスコート無しでDC入りしなくてはいけなかった。ミリタリーが協力を拒否したため、プライベートジェットを手配しなくてはならなからだ。これも前代未聞である。

●バイデンのモーターケード(パレードの車列)が通りかかった時、ミリタリーの人たちは一斉にモーターケードに対し背中を向けて無視をした。普通は絶対的に敬礼を求められる場面である。 

●バイデンはイヤピースで指令を受けているのだが、『ミリタリーに敬礼してください。』と指示されたのに、敬礼せずに、そのままミリタリーに向かって『ミリタリーに敬礼してください。』と指示された通りの言葉をオウム返しで発してしまった。相当アルツハイマー進んでいるのではないか、とネットで憶測されている。 

●バイデンの奥さまがミリタリーに握手を求めたのに、拒絶された。ホームメイドクッキーも受け取りを拒絶されたらしい。 

●州兵の人々は全員、通常であればお祝いモードのはずが、勲章をすべてはずして式典に臨んだ。 

ペンタゴンはバイデン側への機密文書引き継ぎを拒否。これには現在進行形のアフガニスタンやアフリカ、そしてワクチン政策に関することが含まれている。 

20日、就任式の夜、ワシントンDCホワイトハウスとワシントンモニュメントは暗闇に包まれた。この大規模停電について、未だに誰も説明できないでいる。 

●バイデンが執務をとっているはずの大統領執務室であるオーバルルームは映画撮影用のセットではないか、と多数の人々が疑っている。動画、写真を分析する限り、本物のホワイトハウス内ではない、しかも通常は物々しい警備で囲まれるはずがそれが無いのは彼等はホワイトハウスに入っていないのではないか、と噂されている。ホワイトハウスに近づくことをまるで恐れているかのようだ。 

●バイデン政権第一週、すべてのビジネス(予定)がキャンセルになった。 

DCにいる州兵は3月中旬末まで留まるように指示を受けている。何故3月中旬まで州兵が留まる必要があるのか、普通では考えられない事態である。 

●バイデン就任式の時、通常は大統領を迎えるための典型的な音楽が演奏されるのだが、それが一切なかった。 

21 gun saluteと呼ばれる礼砲も一切行われなかった。 

●バイデンは副大統領カマラの後に宣誓。これは憲法違反。 

●現在、ホワイトハウスの警備は国会に比べて完全に手薄。バイデン不在を如実に物語っている。 

●ワイナー、クリントン、ペローシー、バイデンのラップトップは押収され安全な場所に確保されている模様。 

 

 

このように、現在、バイデン政権が完全に軍部に無視されていることは疑いようもない事実のようだ。政権が宙に浮いている状態、INTERREGNUMというれっきとした英語があるのだが、現在、そのような状況であるとみたほうが正しい。軍に支持されなければ政権自体が立ちゆかないからだ。 

すでに、トランプ政権が抑え込んでいたISISイスラム国)テロの問題が再度浮上し始めている。バイデン側は、トランプ政権が手を引いた中東に軍を再度送り込みたい魂胆なのだ。そして、すでにカナダとアメリカを結ぶキーストーンパイプラインプロジェクトがキャンセルとなってしまった。これは先住民アメリカインデイアンにとってかけがえのない経済活動だったはず。これにより少なく見積もっても4万の仕事が消失したことになる。このように早くもバイデンはトランプ元大統領が実行に移してきた、内需拡大軍縮等々の政策とは正反対の政策を打ち出し始めている。 

一方で、マイケル・フリン将軍は30日間、忍耐をもって待て、とメッセージを発信。これは120日から数えて30日間のことを指しているのかもしれない、と憶測を呼んでいる。この間に何か決定的な動きがあるのかが注目されている。 

いずれにせよ、これまでデイープステートを研究をしてきた人たちの間で、バイデンが就任してしまったことに言葉では言い尽くせないほどの失望感・虚無感が拡がったのは事実だ。しかし、これですべてゲームオーバーなどと考えている人たちは殆ど一人もいない。それどころか、オペレーションは続行していて、しかもアライアンス側(トランプ側)が優位に立っている、イルミナテイの敗北は決まっていて、大量逮捕に向けた動きも何ら変わってはいない。これら一連のオペレーションを出来る限り穏便に、内乱など起こさせないように事を進める、と皆確信している。繰り返しになるが、これは決してアメリカのためだけではない。全世界のためなのだ。そして大きな動きの前にすでに着々と逮捕は進んでいる。3万件は優に超える極秘起訴は事実なのだから。 

 

今さらだが、一体『Q』とは何なのか。ここにひとつ例を取り上げて、多くの人にとって未だに謎であるQの発信について、具体的に解説をしてみたいと思う。Qがネット上に姿を現したのはトランプ政権発足直後だ。おもしろいもので、それ以来、いわゆるインサイダー情報というものがどんどん少なくなっていった。それもあって、デイープステートを研究している人たちは一斉にQの発信に注目するようになったのである。 

https://qalerts.app/?n=339

Post # Color. Post # (e.g. 3570) colors indicate when a post was made. It makes it easier to see which posts were made today, yesterday, etc. Today Yesterday 2 Days 3 Days 4 Days 5 Days 6 Days 7 Days
qalerts.app

 

 

添付したのは、Qの339番目のメッセージ、20171213日に発信されたものである 

We have a special place picked out for for GS. Really special.と書かれている。 

GSとはジョージ・ソロスのことを指している。訳は『私たちはジョージ・ソロスのために特別な場所を用意しています。本当に特別な場所を。』ようするに暗に『監獄』のような場所を示唆しているのだ。続いて、 

Q has asked about ownership of voting machines before. They knew GS was going to mess with the numbers. This was the plan.  

訳:Qは以前に投票機の所有権について質問しましたね。彼らはGS(ジョージ・ソロス)(投票の)数字を台無しにすることを知っていました。これがその計画でした。 

続いて、A very special place!! What would be the penalty for stealing elections? 

訳:非常に特別な場所です!選挙を盗んだ場合の罰則は一体どのようなものになるだろう?

こんなメッセージをすでにQは20171213に発信していたのだ。今回のいかさま選挙を3年も前からとっくに見通していたことになる。 これはほんの一例で、Qのメッセージはこのように核心をつき、未来を透視しているかのごとくに正確な予告メッセージで溢れているのだ。 だからこそ、長年真摯に、そして緻密にデイープステートの研究をしてきた人たちはQの発信を最高レベルで注視しているのである。

引き続き緊急速報 大統領就任式に向けて。。

サイモン・パークスさん緊急レポート
 
・マスメデイアが伝えている、トランプ大統領は就任式の日、フロリダの自宅、マーラゴに向かう、ということはありえない。多分テキサスに行く。
・バイデンの就任式リハーサルは月曜日に催されるはずがキャンセル。それ自体が、前代未聞の超異常事態!相当緊迫している!
・現在、ワシントンDCに集まっている軍は約21、400人以上。これらはトランプの味方。ホワイトハットの指揮下にある。
・大きな動きは19日?
・バイデン側は就任式当日、CGIを使うかもしれない。(コンピューター生成画像)
・軍はバイデンをホワイトハウスに入れることを阻止する。バイデンはキャピタルヒル(議会)に入れない。
・2020年の選挙は75%がトランプ票であった。
・ジョン・ジョン・ケネデイは生きている。彼はこの騒動の後、各州を周り、人々のヒーリングに努める。そして4年後、大統領に立つ。
・マイケル・フリンはすでに副大統領のポジションを与えられている。彼が同意すれば(しなければ他の政府の役職が与えられる。)彼が副大統領に就任する。
・34千兆ドル?ものバチカン銀行のお金がすでに凍結された。
・金融システムが変わる。金本位制に戻る。税金、利息が変わる。
 
繰り返しになるが、トランプ大統領とその背後にいる人たちが戦ってきたのは、ブラックハット、イルミナテイである。そこに一寸の矛盾もない。トランプ大統領が清廉潔白な神である、とか聖人君子である、とか、そういう議論をしているのではない。彼と背後にいるホワイトハットたちは、悪魔的なイルミナテイに対してノーを突きつけているのだ。人身売買は駄目だと。虐待は駄目だと。国の利権を売り渡すことは駄目だと。詐欺的金融システムは駄目だと。言論統制は駄目だと。なによりも民主主義に沿わない独裁政権は駄目だと。
 
この後に及んでも、我々の発信している内容を一方的にあざ笑う人たちはたくさんいる。でもその人たちに対して大切なメッセージがある。
『私はずっと真実が知りたくて勉強をしてきた。あなたがそれを怠ってきた理由は何なのだろう?真実をみようとしてこなかった理由は一体何なのだろう?』