元祖デイープステート告発者、ウィリアム・クーパー氏 1-2

 

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私は、1961年に日本のヤマトハイスクールを卒業した。そしてその秋に、空軍に入隊した。

私は乗り物酔いと船酔いが昔から激しいので、海軍への道はあきらめたのだ。テキサス州のラックランド空軍基地、アマリロ空軍基地で基礎を積んだ。プログラム終了後、次はウィチタフォールズの近くにあるシェパード空軍基地で爆撃機戦略空軍に配属された。世間知らずでやせ細ったただのガキだった私が、ほんの短期間で、機密情報を扱い、B-52戦略爆撃機、KC-135給油機、ミニットマンミサイルに取り組むまでのいっぱしの飛行士に成長していた。本物の原子爆弾もみたことがある。原子爆弾のある環境で毎日任務についていたのだ。だから万が一被ばくした時のため、放射線量計を身に着けていなければいけなかった。私たちは、自他ともに認める、その時代の空軍のエリート集団だったのだ。表彰状ももらった。やがて国防従軍記章、空軍善行メダルも授与された。でも、実は、メダル無しで隊列を組むのは恰好がつかない話しなので、この国防従軍記章は全員に授与されていたと思う。この頃、とても影響を受けた二人の軍曹に出会っている。一緒にクラブに出かけ、ナンパをし、ビールをたくさん飲んだものだ。彼等は、何回か、墜落した円盤を回収するための特別任務について話しをしてくれたことがあった。ミースという名前のその軍曹は、墜落した円盤があまりにも大きいので、電柱やフェンスの支柱を引き下げたりする作業をするチームが前もって派遣された後、彼等特殊部隊が出動した、と話してくれた。作業は決まって夜間行われた。日中の間、道路からはずれたところにカバーが施され一時保管された。そんな話しが出るときは決まって皆酔っぱらっていたので、私はその頃は余興と思って本気にしたことはなかった。軍曹というものは下っ端をつかまえて、決まって『でまかせ』を言うものだったからだ。

1963年11月22日、修理戦隊のために下士官兵として任務にあたっていた時だった。殆どの隊員はフラインテイング作業に出かけていたり、第一軍曹もどこかに出かけていたりで、私は一人兵舎に残されていた。私は、その日、ダラスで行われる大統領のパレードの生中継を観てみようと、中隊事務所に置かれているテレビにスウィッチを入れた。信じられないことが起こった。私の、まさに目の前に映し出されているシーンを信じられない思いでじっとみつめるばかりだった。一体これは、何?暗殺?腕も脚もマヒしてしまったかのようだった。マインドはこの事実を到底受け入れることなどできない。私の髪の毛は総毛立ち、ゾクっとした悪寒が背骨をすうっと通り抜けた。私の目の前で、ケネデイ大統領は、銃撃されたのだった。

大粒の涙が滝のように流れた。感情の波が襲い掛かってきた。何かしなければ、と咄嗟に思いたち、指令センターへ連絡すべく受話器をとった。涙をこらえる。指揮官が電話に出た。私はたった今、ケネデイ大統領が撃たれたことを告げた。彼は『どうしてそのことを知っているのか?』と尋ねた。私は『たった今、テレビで観たのです。』と答え、受話器を置いた。全身、寒気に襲われたようだった。数分後、指令センターの指揮官から折り返し電話があり、非常警報防衛準備態勢を命じられた。ジェットエンジンの轟音とともに、乗組員は滑走路に進み離陸体制に入った。私は死ぬほどの恐怖に襲われながら、兵舎から兵舎へ夜勤から戻って休んでいる隊員たちを起こしに走り回った。そして最初のロシアから発射される原子爆弾がここに落ちるまでにもう15分の猶予しかない、と聞かされた。中隊事務所のドアをロックする時間すらなかった。車に飛び乗り、戦略空軍の敷地まで車を走らせた。翌3日間は原子爆弾を積んだB52爆撃機の下で、爆弾倉をみつめながら寝泊まりした。遂に大変な局面を迎えた、と思った。警戒警報が終了したときは心底ほっとした。私はその後、1965年、空軍を名誉除隊したのだった。同年12月、私は晴れて海軍に入隊した。海は昔から大好きだった。少年のころは実は船乗りになりたかったくらいだ。この際、船酔いのことは忘れ、海軍に入ることを決断したのだった。新兵訓練所はサンデイエゴにある海軍操練所だった。すでに空軍の経験があったので、新兵の最高司令官に任命された。階級・給料ともに同等同額支給されたのだ。いい奴達ばかりだった。キャンベル司令官も素晴らしい人だった。教えることだけが趣味、そんな人だった。私たちが必要とする知識をしっかりと教えゆくゆく困らないようにしてくれた。目論見もひけらかしたところも微塵もない、真に我々の味方だった。

新兵訓練所にいたころ、潜水艦に志願した。志願は受け入れられ、訓練終了後、ハワイ真珠湾の潜水艦基地USS Tiru (SS-416)に配属された。本当に幸運だった。指令を受け取ったときは信じられない気持ちだった。海軍で夢を叶えるのだ、と胸が躍った。一番配属されたかったその希望の場所に最初から抜擢されたのだ。しかもハワイのトロピカルな楽天地。私は有頂天だった。私はハワイに到着するなりタクシーで潜水艦基地へ向かった。しかし肝心の潜水艦がみつからない。いろいろ聞きまわり、海軍造船所のほうにその潜水艦があることがわかり、またしてもタクシーを呼んでそちらへ向かった。埠頭に降り立った。そこには、日本軍による真珠湾攻撃以来、全く清掃されていないままの情景が広がっていた。ホース、巨大な電気ケーブル、ありとあらゆる大きさの錆びた金属などが原型をとどめない形で放置されていた。デイーゼル、溶接煙、ペンキ、鉄、そんなような臭いがたちこめていた。地獄のような有様だった。私は埠頭の端のほうまで歩いて行った。乾ドックを見下ろしてみた。すべての尊厳をはく奪されたかのような無残な、真っ二つに割れた姿で横たわっていた物体、それが私の配属された潜水艦『USS Tiru』だった。作業をしている人たちが這いまわっていた。何だか死んだ殿様バッタに群がったアリのように見えた。信じられない光景だった。私の幸運はつきたかのようだった。私はその向こう側にある、停泊された兵舎のはしけに到着を報告した。勤務のためのハンモックが支給され、そこから次級基地兵舎へ連れていかれ、そこで自分の棚とロッカーが割り当てられた。ホノルルへ行ってみたかったのだが、そのような自由は許されていないという事がすぐに解った。『幸運』は徐々に悪化していった。

最初数カ月は、ひたすら研磨、ペンキ塗り、ボートを吊り上げたり、ボート練習したりの毎日だった。乗組員は皆いい奴ばかりだった。コック長を除けば。コック長は朝から晩まで飲んだくれていた。私は彼から嫌われており、お蔭で割り当てられる食事がいつも少なかった。初日の朝から嫌われてしまったようだった。何故あれほど嫌われていたのか、今でもよくわからない。艦長にこの件について相談しに行く手もあったのだが、それは配属変更を申し出るようなものだったので相談に行かなかったのだ。私は、料理長の酒の隠し場所をすぐに見つけることに成功した。私は隠されていたウォッカにちょっとしたいたずらを施した。どんなことをしたかはこの際秘密にしておく。料理長はそれ以来、死ぬほど悪酔いするようになり、体調不良を理由に配属変更となった。本当はこんなことはしたくなかった。が、これは、私の餓死するかしないかの瀬戸際の攻防だった。食料無くして海上任務は勤まらないのだ!それに潜水艦が水中へ潜るとき、主吸気弁をしっかりと完全に閉めなければいけないのだが、それはこのアル中コック長の任務だったのだ。主吸気弁をしっかりと閉めることは致命的に大切なことだ。そうでなければ、船内に水が浸水して乗組員皆、溺れ死んでしまう。その一番重要な主吸気弁は『USS Tiru』の厨房に位置していたので、その酔っ払いの任務だったのである。

潜水艦『Tiru』任務の間、二人の特別な仲間が出来た。一人は黒人の船員、リンカーン。そしてもう一人はアメリカ・インデイアン、ジェロニモだ。いつも我々3人は一緒だった。3人の中でジェロニモが一番経験豊富な船員だった。彼はいつもリンカーンと私に、船舶、ロープ、ペンキ等々、海軍で生き抜くために必要なことを何でも教えてくれた。私はといえば、軍隊については何でも来いだったので、それらの知識を彼等に教えた。リンカーンは、島で遊べるいいところは熟知していたので、自由時間で遊びに出かける時はいつも彼が先頭に立って連れて行ってくれた。『Tiru』勤務の間、3つの忘れられない出来事があった。一つは、オアフ島沖合、600フィート深海を3~4ノットの速度で試運転をしていた時のことだった。リンカーンと私がちょうど当直交代になった時だ。仰天するようなことが起こった。ガーンという大きな音がしたかと思えば、次にぞっとするような音が起こったのだ。何かに衝突した結果、船体の右舷もろともこすってしまったのだ。全身の血の気が引く思いだった。リンカーンと私は凍りついた。金属と金属がこすれあう音を聞くたびに息がとまった。時間が止まったかのようだった。艦内にいる誰もが凍りついていた。やがて艦体が傾き、後方の雑音がおさまった。もしあの時、艦体に穴が開いてしまっていたら、我らは誰も生還できなかっただろう。その後、真珠湾にもどり、潜水士が調査に潜った。右舷の船首平面が損傷し、艦体は右舷の側面から船首、船尾にかけて、へこみができていることが判明した。我々は早速修理に取り掛かり、潜水艦は数日で元の状態に戻った。しかしこの経験は私の人生観を根本から変えるものとなった。 (1-3へ続く)

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