元祖デイープステート告発者、ウィリアム・クーパー氏 1-5

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私はいよいよ、自分の出番、つまり、隠された情報、偽情報を公に暴露する時が来た、と覚悟を決めた。手始めとして、敵を欺くために、何も知らない変わり者を装うことにした。私は本物の情報を混ぜた偽情報を作成し、ジム・スピーザ―という人物を介してその文書をムーアとフリードマンに渡したのだった。ジムはその文書はムーアとフリードマンだけに渡す、と約束した。ムーアとフリードマンの二人に、私は大した情報を所持していない、決して要注意人物などではない、取るに足らない人物である、という報告を上の工作員たちにレポートさせ、時間稼ぎをし、その間に真実の情報を公に知らしめる活動を開始する、という作戦だった。私の文書はコンピューター・ネットワークに送信され、フリードマンはその後、電話を使って私の住所や、勤め先、その他の個人情報を引き出していった。私は彼等に内部情報を使って調査されていたのである。フリードマンとの電話から一週間ほど経過した時だった。二人の国防調査局員が自宅に現れた。そして私が所有するすべてのフロッピーデイスクを押収していったのだった。彼等が押収したデイスクはハードドライヴ無しのただのXTだったので、とりあえず私の作戦は成功したのだった。私は、妻のアニーと数人の信頼する友人たちの助けを得、今度は、知りうる限りの、記憶にある限りの、本当の偽りのない情報を準備していった。そしてその情報を27,000ドルの経費をかけて一斉郵送した。そのパッケージは世界の隅々まで行きわたった。そうすることによって、政府による不当な逮捕や何者かによって危害を加えられるといったことを抑止するためである。政府がそんな動きを示せば、それこそが私の主張が正しい、と公に認めることになるからだ。私は同時に、全国隅々のコンピューター掲示板に情報を開示していった。と、同時に、ムーア、シャンドラ、フリードマン等は政府のエイジェントであること、そして、アイゼンハワー報告書とされている文書は偽物である、と公に明言した。私は1989年4月15日、事務局長を務めていたカレッジを退職した。この本の後書きにも記したが、シャンドラがカレッジ構内をうろつき、引っ掻き回したのだ。この収入が途切れたことはかなりの痛手だった。それでもカレッジの警備部の責任者であったスタン・バーリングトンは何とか生活の足しになるようにと5000ドルを用立ててくれた。彼の誠意、そして私に対するそこまでの信頼には本当に心揺り動かされる思いだった。私は彼に、今後の活動で得る収益の24%を分け与えると約束した。その時誰も、大した儲けになると期待していなかったし、今のところはその予測通りである。それに、スタンには借りの5000ドルは返せたし、これからの収益はすべてエキストラと考えてくれれば、と思っている。彼は私の文書の印刷や、文書やテープ販売の責任者をやってもらっている。スタン・バーリングトンだけが私の正式な代理人だ。それからというもの、妻や私は絶えず尾行され、嫌がらせを受け、留守番電話にはいつも殺人予告めいたメッセージが残されるようになった。

夜中に電話が鳴ることも度々だった。無言電話だ。公用車がドライヴウェイに現れ、身なりのよい男たちが家を観察しては帰っていった。時には真夜中に、変な人たちが玄関先までも現れるようになった。私は380自動拳銃を妻のために、9mmを自身のために購入し防備した。私は妻に撃ち方を教えた。

アニーとプー(長女ドロシーのニックネーム)は私の人生の光だ。アニーとは1989年独立記念日(7月4日)に結婚をした。プーは翌年1990年5月30日に生まれた。12時間に及ぶ陣痛を経て分娩室へ入った時だ。アニーは痛み止めの薬を一切口にしなかった。自然分娩だった。残った力を振り絞り踏ん張った後、アニーは私に『赤ちゃんはまだ出てこない?』とそれは無垢で信頼しきった子供のような表情で私に尋ねる。本当の事を言うのは酷だが言うしかない。『いや、赤ちゃんは未だだ。。。』彼女は一瞬揺らいだようにみえた。しかし次の瞬間、落ち着きを取り戻し、愛情にあふれたまなざしを私に向けた。私は彼女の手を握る。彼女は深呼吸をする。そしてありったけの力を振り絞り、プッシュ!プーの頭が世に現れた瞬間だった。私は心から彼女を誇りに思う。彼女は私のヒーローだ。そしてプーはいつだって永遠に私の友である。

ある時期、私は脅迫されることに相当辟易し始めていた。縁石に停められている公用車につかつかと歩み寄っていった。車内にいる男に私の9ミリのピストルを見せ、こう言った。我々はこのような脅しにうんざりしている、と。もし私について知りたいことがあるのなら、家にあがって腰かけて、コーヒーでも飲みながら話そうじゃないか、と。これ以上家族に対して嫌がらせをするようなら、その時はこのピストルを使うことを何ら躊躇しないだろうとも。そしてその車の後ろに回り、ライセンスナンバーを念のため書き留めた。男はエンジンをふかし去っていった。その日以来、目だった監視は無くなった。しかし彼等はしつこかった。アリゾナに引っ越した事を私たちは誰にも明かしていなかった時だ。ドライヴウェイに差し掛かった時、公用車が再び我々の乗った車の後ろにピタリと現れたのだった。男が車から出てきて、こう言った。『道に迷ってしまったのですが、この家はどなたのお宅ですかね?』と。私は何故そんなことを知りたいのか、と逆に質問を投げかけた。男は国勢調査員を名乗り、どんな田舎でも調査の取りこぼしのないように確認するのが自分の仕事である、と説明した。彼は私の名前を聞いた。私は彼に向って敷地から出るように、そして二度と戻ってくるな、と言った。彼はすぐには従わなかったが、私が本気であることを知ると去っていった。(私はアニーに車の中のピストルを取り出してくれ、と言い出すばかりになっていた。)人によっては私が誇大妄想狂になったのでは、と思うかもしれない。しかし国勢調査員は公用車など絶対に運転したりしないのだ。ある朝、郵便局へ出かけて行った時だ。窓口で切手を買っていると、真横の窓口で群保安官代理がこう質問しているのが耳に入ってきた。ウィリアム・クーパーはこの郵便局に私書箱を借りているか、と。窓口の人間が私の私書箱借り契約書を取り出しそのコピーを差し出したのには笑ってしまった。田舎に住んでいると住所など記載されていない。そのコピーには何の手掛かりになる情報も記載されていなかったのだ。私たちは、ありとあらゆる、屈折した詐欺師、テレビ・プロデユーサー、台本作者、作家、ペテン師に悪用され続けた。テレビ、印刷媒体、レポーターそしてプロデユーサーは嘘つきばかりだった。客観的なところは一つもなく真実など全く気にも掛けていないのだった。現在、公に残された公正なメデイアは、トーク・ラジオくらいなものだろう。しかしそのトーク・ラジオすら、特定の事柄に関しては取り上げたりしない。私の資料は、お金のために、時に複写され、変更され、盗作さえされた。ハリウッド・プロデユーサーに至っては私のストーリーを1ドル!で専属で買いたい、と言ってきた。ビル・ハミルトンは『エイリアンマジック』という彼の本に私の資料を使わせてほしいと懇願してきた。彼は友人のフリが上手かったので私は彼に許可を与えた。報酬を求めもしなかったし、彼の方からも何も申し出がなかった。彼のお粗末な本は、最初から最後まで誰か他の人の資料だけで成り立っていた。そうしておいて、彼は今となっては、私が彼の資料を盗んだ等と、のたまうのであった。ビル・ハミルトンもまた、ただのUFOきちがいでしかなかった。しかし最もひどかったのはマイケル・カラン(Micahel Callan)とダグラス・デイーン(Douglas Deane)だ。覚えているだろうか。カランは安っぽいテイーンエイジャー向けの映画にレギュラー出演していたことがある。デイーンのほうは、ちょい役ばかりで出演していた。ある日、ブルース・リード(Bruce Reed)という男が、匿名希望の友人と一緒に会ってほしいと言ってきた。知らない人と他所で会うのは気が進まなかったので、自宅で会うことになった。リードとその匿名希望の友人は私の家に姿を現した。その友人こそがマイケル・カランだったのだ。彼らは私の資料を読んでおり、何とか力になりたいと申し出た。彼等は私が大勢の前で講演できるように取り計らうことができる、とのたまったのだ。カランは非常に饒舌だった。5年間マネージメントする代わりに、私の収入の20%をもらう契約を持ち掛けてきた。6カ月でマネージメントの成果が上がらなければその場で契約は打ち切る、という内容だった。カランの最初にとった行動はパートナーであるはずのブルース・リードを悪しく扱うことだった。彼はリードをこのプロジェクトからさっさと外したのだった。20%の手数料を独り占めするためにやったのだが、私には、リードは麻薬デイーラーだからはずしたのだ、とうそぶいた。リードが麻薬デイーラーであることはいずれ公に知れることになり、そうなるとそれは私に不利に働く、というのだった。このカランの話しはすべて嘘だった。今度は、前述の私の友人、スタン・バリングトン(Stan Barrington)が連絡をしてきて、何故自分をこの話からはずすのか、と言ってきた。私は何のことを言われているのかわからなかった。聞いてみると、またしてもカランがスタンにこの話しから降りるようにと言いがかりをつけてきたとのことだった。スタンに身を引かせ、私との契約を50:50に持っていきたかったのだ。スタンには契約を無効にする気など一切ない、と説明した。彼の取り分24%は永久に彼の取り分であり、売るなりなんなりいつでも自分の好きにしてよい、と念を押した。そんな経緯でカランのことを追い払うことになったのだった。ダグラス・デイーンとのつきあいは1989年1月7日に始まった。ラスヴェガスのショーボートホテル・カジノで私が講演をしていた時だった。講演の様子を録画するためにカランがダグラスを手配していたのだ。講演の録画テープはたくさんの人に作ってほしいと依頼されており、その人たちへ販売できるようにするためだった。契約内容は、彼がイベントの様子を録画したテープの著作権はすべて私にある、ということ。もしテープの出来栄えが良ければ、デイーンが新しくテープを製作する契約を結ぶ、というものだった。録画テープの出来栄えは最悪だった。こんな質の悪いものを売る気は毛頭無いと断った。彼等はいずれにせよ、裏で勝手に動画を作成した。ドイツ在住のプロデユーサーは、ドイツ本国での講演を予定してくれた。契約の安全のため、彼は3,000ドルの小切手を送ってきてくれ、それを二人分のファーストクラスの飛行機代に充ててほしい、と言ってきた。講演は絶対にキャンセル無しということだった。ところがドイツで郵便ストライキが起こり、主催者は講演を宣伝する術が無くなったという理由で講演をキャンセルしてきたのだった。カランはその3,000ドルも着服していた。その事についても、カランを解雇して初めて知ったのだった。サンデイエゴの講演では、デイーンが録画テープの販売を勝手に行っていて、その分も着服していた。もちろんすぐにデイーンも解雇した。カランに二度と一緒に仕事をしないと宣告した。マスターテープも取られてしまっていたが、それでも彼を解雇した。カランを解雇した時、彼は我々のもっているすべてを盗んでいた。我々は身ぐるみはがされてしまったのだ。彼は私の講演した録画のマスターテープすべてを取り上げていた。我々はこの時点で無一文、ホームレスに等しかった。ミネソタに数人友人がいてくれたお蔭で、ホームレスにならずにやっと切り抜けることができた。

カランとデイーンはその後も無断で録画テープの販売をし続けた。その販売収益の何一つ、私たちの収入にならなかった。彼ら以上に卑劣な詐欺師たちは存在しないだろう。私はそれでもマスターテープの返却を求めにデイーンの家を訪ねて行った。彼は留守で、彼の留守番をしている人間と話しをした後、仕方なく帰路についた。数日経った後、保安局から連絡があり、私がデイーンの家に行ったかどうか尋ねられた。私は行ったと正直に答えた。

数日後、私には『接近禁止命令』が出されていることがわかった。デイーンは私が再度戻ってくると思ったらしい。自分で自分の車のタイヤに裂けめを入れ、保安局へ被害届を出していたのだった。そして私への接近禁止命令を裁判所から獲得したのだった。最初から彼等の目的は、アメリカ国民に真実の知識を与えようとする私の奮闘をぶち壊すことだったのだ。彼等は確かに成功したかにみえた。(ウィリアム・クーパー著 Behold a pale horse 序章終わり)

 

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