元祖デイープステート告発者、ウィリアム・クーパー氏 1-4

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私はその後、学校へ配属された。それは内部の警備専門家育成のための海軍保安・諜報機関学校だった。(NEC9545)全般のトレーニングでセキュリテイ―の境界、防犯設備と建物、核物質機密情報などの知識を学んでいった。特殊兵器、仕掛け爆弾、武装解除、盗聴器検出、電話盗聴器、送信機等々、様々な科目を学んでいったのだ。私は確実に、太平洋地域の極秘情報を扱うミーテイングを準備したり指揮したりするためのトレーニングを受けていたのだった。私は1968年に入学して以来、海軍を退くまでの間、一貫して海軍の保安・諜報機関で仕事をしたことになる。卒業後はベトナムへ移動となった。もう一年も前に志願していたのだった。いかれたガソリンタンカー任務より、戦場のほうがよほど私にとって好機があると思ったからである。新兵訓練所以来のチャンスだった。私は心底、お国のために戦いたかったのだ。この時の自分がなんて馬鹿だったのかと知ったのは数年先のことだ。私はダナンに降り立った。キャンプ・カーターまでバスに乗った。そこは第一軍団の海軍保安諜報の本部だった。カーター司令官の面接を受けた。キャンプ名と司令官の名前がたまたま一緒だった。司令官は私に巡視船長は務まるか、と聞いた。私は、はい、と答えた。はい、としか返答のしようがない。船と船員たちを指揮するなんて、冗談を言われているのかと思った。しかし冗談ではなかった。それで私はいきなり巡視船長になったのだった。海軍諜報部署の、港湾巡回のDuey 中尉は、私に自由に船員を選ばせてくれた。私と船員はそれから毎日3日間、ボートのことを隅々まで点検した。すべての調節を行ない微調整を怠らなかった。やすりをかけペンキを塗った。船室にカーテンをかける船員もいた。エンジンは入念に検査した。武器を検閲し、船の装備を進めた。本音を吐けば、それらの大量の銃をみているだけで縮み上がりそうだった。戦時には戦闘艦のキャプテンとして船員のために最善を尽くそう、とその場で固く誓った。24時間で2-3時間だけ寝る習慣を身に着けた。船員が食べ終わるまで私は決して食物を口にしなかった。ダナンの港や川を巡回する夜は本当に不気味だった。ある夜などは、ダナン橋のふもと付近の弾薬庫にロケットが当たったことがあった。それは世紀末のような様相を呈した。海洋燃料場の近く、イザベラ地点の入江で敵と遭遇したこともあった。(以下省略)

このベトナムに任務していた時、特に非武装地帯において、私はいつもいつもUFOの活動に気づいていた。私たちはメッセージを暗号化させるための暗号コードシートを持っていた。どんなことで情報が敵の手に渡るとも知れなかったので、国家機密に関わることに関しては特別なコードワードを使用していた。UFO関連事項は、まさしく国家機密に関わる重要事項だった。UFOが頭上に空中停止していたと思ったらその下にある村全体の住民たち全員が消えていなくなった、という事件もあった。それこそ、冗談抜きに国家機密に関わる重要事項だったわけである。両陣営がUFOに発砲することもあった。そして決まって不思議な青い光線で反撃されるのだった。UFOが兵士を二人誘拐し、バラバラ死体にして茂みに落としていった、などという噂もたった。誰も噂の真偽は知らなかった。私と言えば、噂が根強くあるということは、何等かの真実がそこにはあるのかな、と思っていた。後に、これらの噂の殆どが真実である、と判明することになる。

やがて私はハワイに戻された。今度の任務は真珠湾の丘、マカラパにある、太平洋艦隊司令官の本部における陸上勤務だった。私は空軍の機密情報取り扱い許可証を所持した。艦隊総務課に届け出た時、さらなる許可証のためのフォームに記入しなくてはいけなかった。そのフォームの質問事項には『あなたはこれまでに、いかなる友愛組織に所属したことがあるか?』という項目があったのを憶えている。私はそのリストの中にあった、『DeMolay Society』という名前のところにチェックを入れた。何らそれに対してネガテイヴな気持ちはなかった。FBIによる身元調査が終わるまでの間、Mercado中尉の下、作戦状態報告事務所(OPSTAT)に配属された。その六か月後、晴れて海軍情報部の参謀長室へ配属となった。しかし、まさにその日、私は、海軍情報部がネデイ大統領暗殺に関わっていた事実、そしてケネデイ大統領の頭を撃ち抜いたのは、その時のリムジン運転手を務めていたシークレットサービスのエイジェントであった、という事実を知らされたのであった。私は2度と任務に戻らないつもりで、『無届け』で外出をした。私の良き友人であった、ボブ・スワンは軍に戻るように説得してくれた。その後彼には、1972年6月1日、私の最初の結婚の前夜、すべてを打ち明けた。UFOのこと、ケネデイ大統領暗殺事件の真相、ガリレオ計画、ニューワールドオーダー計画等々、知っている全てを話したのだった。その時もそれらが真実であると疑わなかったが、今となってはそれは紛れもなく真実であることを私は知っている。そして、一つだけ読者に警告をしておかなくてはいけない。シークレット・ソサエティー(秘密結社)が1917年にまで遡り、人工的に演出した『エイリアンの侵略に立ち向かうために、人類は一つの政府に統合されなくてはならない』、というニューワールドオーダー、という名の策略をすでにプランしているという事実についてだ。私は今だに真実を模索し続けている。この本は今までに書かれた本の中で、一番その真実に近いものである、と私は確信している。私は解雇された後、何度か新聞記者などに情報をリークしようとした。すると、ある日私は、オークランドの丘の上で、黒いリムジンによって崖から突き落とされてしまった。リムジンから降りてきた二人の男たちは、血まみれになって倒れている私のところまで降りてきた。一人はひざまずき私の頸動脈パルスをはかっている。片方の男が『死んだか?』と言っているのが聞こえた。『いや、まだ生きている、しかし直に死ぬさ。』『よし、じゃあこれ以上何もしなくてよさそうだな。』と言い残し、崖を上がって車で去って行った。私は何とか必死に土手を這い上がり、誰かに発見されるまでそこに倒れていた。それからひと月ほどたったある日、また同じリムジンによる事故に見舞われた。この時は脚を1本やられてしまった。例の男二人がご丁寧に病院まで見舞いに訪れた。彼等は今度こそ私が口を紡がなければ命はない、と言ってきた。私は彼等に、これからはいい子になるから心配ない、と告げた。私は心の中では、何時か今度こそ安全を確保した暁には、絶対に『暴露』』をやりとげてみせる、と心に固く誓っていた。それには16年という歳月、そして27,000ドルという経費、そしてコンピューター、大量な封筒が必要だった。私は海軍を除隊した後、学校に戻った。写真技術を習得したのだ。深海潜水スクールの主任インストラクターを務めたり、海洋大学の水中撮影インストラクター、アデルフィ・ビジネスカレッジや太平洋岸技術研究所、国立専門学校などの事務局長を歴任した。自分で写真スタジオやギャラリーも経営したりした。そうしたある日の、1988年の春、ムーア、シャンデラフリードマン等のリサーチチームが発見したとする文書に関連した記事が掲載された雑誌を眼にした。それには、円盤やらエイリアン、マジェステイック12と呼ばれる作戦本部に関して、政府の見解が解説されていた。私はムーアもフリードマンも政府のエイジェントであり、文書が偽物だということを知っていた。シャンデラという名前はその時初めて知った。私は以前、マジェステイック(MAJESTIC)と呼ばれる緊急事態対応計画を開始させるためのエイジェントのリストを閲覧したことがあったのだ。それはゆくゆく必要になった時、捜査をくらますことが目的とされて作られた組織だったのだ。(1-5へ続く)

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